2016年の振り返り

このブログはここのところは数エントリおきに年越し前の振り返りな気がするんですけどまあいいです。
今年は仕事で静岡に移りました。だいぶん長いこと過ごした名古屋を離れて静岡です。
静岡って実は結構いろいろ縁があります。高校の時に初めての全国大会で盛大に失権したのが御殿場ですし,夢破れてすべて投げ出したのがつま恋でした。その後,研究というものに出会う大学2年生までくさったしたいのように過ごしてGPA1.4とか取ったエピソードに続く。全くかっこいい話じゃないです。
そんなこともありつつ決して静岡が嫌いなわけでもなくて,ただなんかの節目に立ちはだかるイベントは常に静岡だなあって感じもしています。

とは言っても,別に今の職場に不満はないです。周りはいい人ばかりだし,学生さんも優秀です。ただ自分がなかなか不器用で,多いコマ数を捌くのが大変で勝手に忙しくしていました。
今日はくだんの高校時代,いかにして相手を打ち負かすかということばかり考えていたあの時代によく聞いていたチャットモンチー『耳鳴り』に所収さるる曲を聴きながら大掃除しておりましたです。蜂の巣にされたin静岡ーってかやかましいわ。
研究のほうでは,なんかあまり芳しい結果が出た年ではありませんでした。某国のジャーナルに送ったら,なんかレビューに全然送られないし,レビューに送られるまでにクレームのメール2件くらい必要っぽいし,メジャーリビジョン2回なったのに送り返すたびに半年くらい待たされるし,どうなってんのってメール送っても無視されるし。もういっこのところは一年くらいレビューしててまだ結果帰ってきてないし(そんで「まだレビュー中ですか」ってメール送ったら「まだレビュー中だよ!」って返事来た),そんなだったので,アクセプト全くなくモチベーションも上がらないし。研究費関連の申請も全部リジェクトでした。論文書いてもプルーフリードできないので後期からはまったく論文かくのをやめてしまいました。なかなかうまくいかないものです。あ,でも日本語で書いたやつを投稿してたのが最近帰ってきたので,書き直し頑張ります。

身体の方は,春から腰が痛くてそれが背中に来て,最終的に首に来ました。首の椎間板が良くないらしくて,変な姿勢だとすぐ痛み始めます。重い荷物をリュックとかで背中に持つと30分くらい歩くだけで腕が痺れてくるのでなかなか困りものです。他にも内科的には消化管が悪いっぽくて,あとシップの張りすぎで首の皮膚がただれてきたりとか,まあもう節々が痛いし痒いし。夏には牡蠣に当たったりして辛い思いをしました。過去最悪のコンディションでした。

しかしそうはいっても,2017年は今年以上にいろんなイベントがありそうで,忙しくなりそうです。乗り切る為にはメンタルもフィジカルも健康でなきゃいけないし,ますます気合い入れて頑張らないといけません。
とにかく,来年はもうちょっといろいろできるといいなあと思います。良い年と悪い年は周期的にやってくるので,2015年が調子よかったしまあこんなもんかなーと,そんなふうに考えながらあまりストレスためないように何とかかんとかやっています。今年は溜めた(貯めてはいないけど)ので,2017年はより飛躍の年になるといいです。
毎年のルーチンワークを忘れずに年を越したいのでそろそろこのへんで。今年はもうほとんど過ごす時間が無いので,どうかみなさま良い年をお迎えください。

寝る前のルーティン

例えば来客があるとか,酔って帰ってきてそのまま布団にダイブするとかでない限り,いつも寝る前にこなすルーティンがある。それは少しお金に余裕ができたりすると,増えたりしていまでは結構な長丁場となっている。

まず疲労回復に良いらしいビタミンC錠を飲む。これは食後のことが多いが,忘れていたらここで飲む。

それで,きな粉を溶かしたあたたかい牛乳を飲む。

アロマオイルをディフーザーにセットする(最近はラベンダー2滴にユーカリ1滴が主なレシピである)。

ディフーザーのスイッチをいれる。下半身をメインに簡単なストレッチを行い,ついでにこの前後で足つぼを刺激しておく。どこかのタイミングで,その後の工程に必要になるホットアイマスクのレンチンを先にしておく。

目薬をしてホットアイマスクをつける。そして,楽な姿勢をとり瞑想をする。

睡眠に入る。そして,今日も研究をしなかったという罪悪感を,まどろみの中に葬り去る。

 

必要な「アクティブ」さ

先週までの授業では,スピーキングとライティングの違いを考え,とくにライティングでは文章の構造が読み手に大きな影響を与える話を例を交えながら行った(そしてその前に同内容について実際に英語しゃべってもらっている)。その上でwell organizedなライティングを行うためには,プランニングをどのように行えばよいかという内容を扱った。その上でライティングをしてきてもらい,ルーブリック評価の話を交えながら,実際に他人の書いてきた文章を観点別に評価し,フィードバックしあってもらった。

学生は他人の作文を読む中で,同じ内容についても異なる切り口や表現に多く触れることになる。また,読者の観点から他人の同じ内容の英文を読むことで,表現や構造も含めどのような点がその文章を読みやすく/にくくしているかをそれぞれが考える。その一つ一つをメモして,自分のライティングをどのように変えればよりよくなるか,ひとりひとりに考えてもらう。その後のリフレクションでは,どのようなことを学んだかについて各々とてもたくさんの内容が出てきて,ひとまず安心した。

そんななかで,評価してフィードバックを行っている授業風景を,アクティブ・ラーニングの紹介としてよく見る風景と同じだなあと思いながら眺めていた。私は自分の授業を「アクティブ・ラーニングです」と紹介したことはないし,その理念をちゃんと勉強して取り入れているわけでもないが,とにかくそんなことを思ってみていた。

「アクティブ・ラーニングをしなければいけないので,読んだ内容について生徒に話し合わせたんですが,シーンとして誰も話し合わないんです」という話を以前伺ったことがあった。話し合ってね,とか,これについて何を思いますか,といったところで,なかなか活発に意見を出してくれはしない。私も未熟であるがゆえにそんな経験をいくつかして,それですこしずついろいろな変更を加えてくるなかで,だんだんとどういう状況だとうまくいって,どういう状況だとうまくいかないかわかるようになってきた。そして,アクティブに意見を言うようになる前に,自分の意見を十分に考える時間やきっかけが必要なことも感じ,しかもその考えを練るには相当の時間が必要なこともわかりはじめた。活発に意見を交わす「アクティブな活動」の前にはいつも,主体的に考える,静かではあってもアクティブな個々人の心的活動があるように思える(話すための原稿を作る時間とか,そういうのとは別のものだ)。

もちろんほかにも本人たちの自信や慣れといった本当に多くの要因の影響がある。

しかし一方で,既習事項の文法の穴埋め問題の答えを話し合わせるといった形式で授業をやっても,ある程度学生は話すし,見た感じ同じようなアクティブさになる。しかしよく見てみると,答えがわかっている人がわかっていない人に解説をしているだけであったりする。もちろん,答えがわかっている人は説明することで理解が進むこともあるし,説明を聞いた側はそれで理解できたりするので,それ自体が即悪いというわけではない。つまりは,写真や動画でみたときに見た目がおなじような「アクティブさ」でも,その中で起こっていることは大きく異なるという,考えてみれば当たり前のことが,今週はなんだかいつもと違うイメージで捉えられた。

彼/彼女らにはどいういう「アクティブさ」が「有用」なんだろうと考える。

2015年のまとめ

WordPress.com 統計チームは、2015年のブログの年間まとめレポートを用意しました。

概要はこちらです。

サンフランシスコのケーブルカーには60人が乗車できます。2015にこのブログは約3,200回表示されました。ケーブルカーに置き換えると、約53台分になります。

レポートをすべて見るにはクリックしてください。

英語テキストのサンプルをみて

最初の更新は2015/12/24ですが,随時新しく見たテキストについて書き加えを行っています。現在の最終更新は2016/4/29です。

 

今まで受け持った大学の授業は自由度が高く教科書の指定もなかったので,私はこれまで,ほとんどの授業では教科書をあまり使わずにやってきました。もちろん信頼できる英文を一から書くのは難しいので,いろいろなところからマテリアルをもってきてそれをもとにワークシートを自分で作ったり,コミュニケーションタスクもどんな活動が出来るか日ごろから考えてネタをストックして時間があるときにプリントを作ったりだとか・・・。

テキストブックは丸善とかに行くたびによく英語テキストコーナーみたいなのがあるのでそこに寄ってぱらぱらめくってはいるのですが,とくにコミュニケーション系の授業なんかではこれ!っていう感じのテキストに出会わなくて(好みの問題です),あまり使ってませんでした。ですがいろいろ思うこともあり,今後は教科書も使って授業ができなきゃいけないなあと思い,今年は学会でも企業展示をよく回ってみて,そこで気になったテキストのサンプルをもらったり送っていただいたりする機会に恵まれたので(そういうシステムあったんですね,これまで知らなくて自費で買ってました・・・),今年は前年までと比して多くのテキストに目を通すことができました。自分の授業はコミュニケーション系とリーディングのもののみなのでそこに関連するものしか見てないですが,以下には備忘録も兼ねて,使ってみようかなと思ったテキストブックを取り上げ,思ったことを書いてみようと思います。

 

■リーディング関係

CONNECTION 3─Intermediate Level

レベルはいろいろあるみたいですが3しか手元にないです。

この教科書はリーディング系で,読解前活動→読解→語彙系課題→理解度チェックと進むスタンダードなものです。リーディングテキストとしては最小構成です。語彙のアクティビティや理解度確認問題は自分でマテリアルを用意すると作るのが本当に大変なのですが,そういうところが含まれていてありがたいですし,個々の課題も面白いです。英問英答の語彙課題はそのままTOEICのようなテストの対策にもなりそうですし,一部の読解問題は「パッセージに直接書いていないから自分で推論して記述しなければならない」問題になっています(※2016/1/5追記:推論を促す問題はどうやらこのIntermediate levelからのようで,CONNECTION 2より下のレベルにはついていないようです)。

こういう行間を読んで議論できるような読解問題は,自分でも頑張って作ろうとするのですがなかなか難しいんです。学生さんにも,テキストをよーく読んでこういう問題を作ってきてもらうというタスクを宿題としてやってきてもらったりするんですが,一通りこの問題をやると自分でもどういう問題を作ったらその後の議論が盛り上がるのか分かってくるのではないかと思います。

全体的に,一からやると最も大変なマテリアル探しとそれに即した語彙・理解度チェックの設問がついておりその質も高く,かつ最小構成だからこそこれをもとに色々な活動をプラスアルファで導入しやすくて嬉しいと思いました。事前活動や事後のディスカッションも題材が用意されていてやりやすいので,自分の授業では,内容を把握しディスカッションしたあとにそれを元にしたサマリーライティング活動なんかに使ってみたいと思います。

 

A Visit to Amazing Kansai-based Companies

この教科書はビジネス系の学生が興味を持ちそうな話題をとりあげています。理解度を確認するための課題ももちろんついていて,そのバリエーションも多く飽きが来ないテキストだなと思いました。

ただ毎回ついているcompositionという課題が・・・自分で企業について色々調べて報告する際に,その報告が文章の穴埋めするだけというのが少々気になりました。たぶん形式フォーカス的な活動という位置づけなのでしょうけど,せっかく学生が自分から調べて報告する活動なので,もうちょっと幅を持たせたほうがいいんのかなあとも思います。それが気になるだけなら教師自身がこの活動をヒントにしてプロジェクト型とかに改変すればいいので,やり方次第なのですが。

このテキストに特徴的なのは,一貫してある人や企業の歴史を紹介しているので,読解活動として時系列を問う問題が多くあることです。特に,毎ユニットの一番最後に,本文をもとに年表を完成させるタスクがあり,これは意味中心の読解サマリーとして面白い活動だと思いました。

 

Collins Communication for International Business: The Secrets of Excellent Interpersonal Skills

上記はアマゾンリンクです(念のため,アフィリエイトではないです)。これは英語授業用テキストではなく,ネイティブ向けのビジネスコミュニケーション入門書です。ただ丸善のテキストの棚で見つけました。

ネイティブ向けなのですが,かなり平易な英語で読みやすく,ページ数もけっこう多いので,入学したばかりの,英語をまじめに勉強してきたビジネス系の大学一年生にオーセンティックな英語を沢山読んでもらいたいという私の意図にピッタリあったマテリアルでした。もちろん理解度チェック問題はついていないので,そのあたりに関しては適宜自分でワークシートなどを作る必要がありますが,ちょくちょく読者の考えを煽る記述も多いので,それを元にインタラクティブに議論しながら進めることができました。

 

Reading Stream – Elementary

色々なレベルがあるようですが手元にあるのはElementaryです。

15ユニットからなる,社会や経済に関するトピックをあつかったリーディングテキストです。

サイトの目次を見ていただいてもわかりますが,それぞれのユニットに「トピックセンテンスとパラグラフの構造を理解する」とか「定義を示して例示する」とか「コミュニケーションのスタイルを理解する」などといったテーマが設けられています。

事前活動でスキーマを活性化させて,1ページ分の読解テキストがあり,事後活動(要約や理解度確認問題)へと流れるスタンダードなリーディングテキストですが,事後活動には,グラフィカルなシートに読解した内容を書き出していって内容をサマリーするという面白い活動が収録されています。このような感じでどの記事にも,どのような原因からどのような結果があったのかとか,時系列の流れがどうなっているかなど読み解かせ図を完成させる課題が付属しています。音声ファイルも付属しているらしく,リーディングをメインに色々な活動に活用できそうなテキストです。

応用としては,T/Fの内容確認から一歩踏み出して,この図を完成させることで内容をまとめ,徐々に慣れてきたところで最終的にはこういった図自体を書いてもらうというタスクも考えられます。また要約を発表したりしてもらうとリーディングとスピーキングの統合的な活動にもなりそうです。

 

CLIL Global Issues

たまたま研究室で前任者かだれかが置いていったテキストに目を通していたら発見したもの。
人種差別やエネルギー問題,絶滅危惧種などについて幅広いテーマを扱っています。
特筆すべきは,タイトルにもあるようにCLILのテキストなので,また図表を読み取らせたり図表に書き込んだりする能動的な読みを促す工夫が多く,その後も自身が思ったことをまとめたりディスカッションをしたりしやすい多くの良質なプロンプトが収録されていることです。
CLILにこだわった先生方の執筆した教科書ということでさすが丹念に練られていて,教科書にそってやっていくだけである程度,質の保証された内容中心の授業ができるのではないでしょうか。
このような内容中心の活動というと,「文を読めているかどうかもわからないのに内容中心なんて!」となる人が多いのですが,
ただのTorF活動をするのと図表を読み取らせたりするのは「文が読めていたかどうかわからない」具合で前者がそんなに優れているとも思えませんし,大学生としてせっかく内容のあるコンテンツを題材として学んでいるのなら,「読めたかどうか」だけで終わるのももったいないもの。ディスカッションはとりあえず日本語でやったとしても,それをもとにさらにマテリアルに戻って深く読めるなら,日本語を使った「英語の学習」としても十分機能すると思います。
ともあれ,こういった内容が扱えそうな授業の受け持ちになったときは是非活用してみようと思いました。

 

■スピーキングやコミュニケーション関係

Widgets: Task-based course in practical English

これはtask-based language teachingの理念にもとづいた教科書みたいで,前から気になってはいたのですが,北海学園大学の浦野研先生が使っていらっしゃるということでサンプルを取り寄せました。統合的なスキル育成が目的だと思いますがコミュニカティブな色が強いテキストです。

ただTBLTにもとづいているので,ほかのコミュニケーション主体の教科書とはかなり色が違います。「この表現,単語,文法を使ってコミュニケーションしましょう」とか「事前に準備してそれを読み上げてコミュニケーションする」という感じは全くないです。この教科書を配って,「はいじゃあこれについて英語で議論してください」といったところで学生は葬式のように口を閉ざすでしょう。かといって事前にその議論で使うリソースを全部教えてそれを使ってコミュニケーションを行ってしまうとこの教科書のよさが失われてしまいます。他の教科書を使ったコミュニケーション系授業でもそうでしょうが,それ以上に,いかに学習者が英語使用しやすい状況を作り出しinvolvementを高めるかがキーになってくると思います。また当然,事前に表現や単語文法が与えられるときより単語単位の発話や断片発話が多くなるでしょうから,それに対して教師には忍耐力が求められるでしょう。来年はどこかでこのテキストブックを使いたいと思うので,リソースを教授する以外でどのようなプレタスクが行えるか考えて,上手く行った活動やいかなかった活動も含めシェアしていけたらと思います。

 

自分の授業を念頭に思ったことをつらつら書いてみましたが,使用感や,付加した課題などまた書いていければと思います。

 

最近読んだ本(2015年夏)と,本を読んで思ったこと

自分用メモ。

なかなか目先の研究に必死で論文しか読めない学期中と違い,長期休みは本がすこし余裕を持って読める。以下はこの夏休みに読んだ本と,読んでいる途中で夏休み中に読みきる予定の本。

  • Mike Long. Second language acquisition and task-based language teaching.
  • 西口光一『第二言語教育におけるバフチン的視点』
  • ジェリー・H・ギル『学びへの学習 新しい教育哲学の試み』
  • パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』(三砂ちづる訳)
  • ジョン・デューイ『学校と社会』(毛利陽太郎訳)
  • 後藤バトラー裕子『英語学習は早いほど良いのか』
  • 戸田山和久『哲学入門』
  • 内田良『教育という病』
  • レフ・セミョノヴィチ ヴィゴツキー『思考と言語』(柴田義松訳)
  • ピエール・ブルデュー&ジャン=クロード・パスロン『再生産』

私の指導教員の先生の誰かがここを見るかもしれないので一応付け足しておくと,これは博士論文執筆の合間に息抜きがてら読んでます,あの,はい。大丈夫です。博論ちゃんとやってます。

デューイとヴィゴツキーは学部生の頃からの読み返しで,ブルデューはまだ途中で全部は読んでいない。

なんでこんなにSLAっぽくない本ばかり読んでいるのかというと,Longの2015年に出版した上記の本で,TBLTの”Philosophical underpinnings”の章があり, “individual freedom”や”emancipation”とかについて教育思想を引いて言及しはじめたからだ 。Long的にはこういう考え方は昔からあったのかもしれないが,こういった観点から著したものはなかったのではないだろうか。これは画期的なことだと思う。そもそも,(第二言語習得における)TBLTは認知的アプローチのSLA発で,ほかの似たような背景から出てきた教授法と同じく,こういった議論が大変少なかった。多くのSLA研究者はこっちの方が効果的だ,あっちのほうが効果的だという議論でしか教授法を評価していなかったし,(しかもその議論自体エビデンスベーストのアプローチからみて微妙だとか批判されたり,)その「効果」というのも,いかに記憶に定着しやすいかという議論に限られていた。もちろん外国語教育にその観点は極めて大切ではあるが,それは評価されるべき一側面でしかない。

幸いにして私の周りには学部生のときからそういう認識の人が少なくなく,認知的アプローチをとるSLAerとしてはずいぶん前から私も自覚していて,そういった思想的な部分はちょこちょこ勉強しなければと思い目について気分が乗る限り読もうとしてきたのだけれど,現在の状況でそんなの勉強しても僕程度の理解では業績にもならないから就職遠のくし,そもそもこれ系の話になると何言っても誰かに怒られるしで気乗りせず,あまりきちんとできないでいた。Longの記述をみて,これからようやくそういう議論はいよいよ活発になると思い,これはタスカーとしては再び腰をすえて読み込まなければいけないなと思った次第。考えたことは今後も書いていきたいので,浅学ゆえに変なこと言うかもしれませんが,ご指摘をよろしくお願いします。


それはそうと,ここから話は大きく変わるけれど,ギルとフレイレと内田氏の本を読んでいて,寺沢さんのこの記事の記述を思い出した。

批判的応用言語学の「批判的」に関する誤解

このようなコンフリクト的な社会観は、たいてい、一般の ―ナイーブな、というと怒られるんだが笑― 人々を困惑させ、ときに、不愉快にさせる。「なんでそんなに穿った見方しかできないの?」と。実際僕も言われたことがある。

またこの記事には,批判的応用言語学におけるコンフリクト的社会観は,「悪意を持った『権力』がいるせいで、この社会には、言語差別や抑圧的な言語教育政策が存在する、そうした隠蔽を科学や合理性の力で暴けば解決、という考え方」と混同させてはならないという記述がある。ということは混同している人もいるのだろう。直感的にもたくさんいそうだ。

マルクス主義やポストモダンの「権力が社会構造を介して弱者を支配するという見方」って,その立場に合意するかどうかはともかくとしても,かなり理解されにくく,誤解されやすいもののような気がする。私自身そういう見方に始めて触れた学部生時代に,わかったようなわかっていないような気になって,結局「具体的な事例はわからないがそういう目に見えない力学が働いてるんだろう,どこかで」くらいの理解だった。その内容をそもそも寺沢さんが言うところの「調和的社会観」と極めて親和性が高い教育というコンテクスト(=教育はよいものだという考え)に当てはめると「穿った見方」と見られがちなのは当然かもしれない(というのは内田先生の本を読んで強く感じた)。マルクス主義やポストモダン的な見方をとらない人なら尚更である。

例えば,ギルの本では,フレイレについて触れる際に,この哲学思想が多様な教育的文脈に適用されるには限界があると指摘する。これはフレイレの識字教育を行っていたようなコンテクストといわゆる「先進国の政治環境」ではそういった構造が根本的に異なるという前提に立っていることを示唆している。示唆っていうか,「こうした方法は第三次世界以外の教育にとっては不適当なものになってしまうのではないかという問題がある(p. 244)」という明確な記述もある。その上で,フレイレの教育思想を「先進国の政治環境」における教育の文脈にどのように適用できるかという考察を行っている。マルクス主義やポストモダンでは,そういった抑圧構造はあらゆるコンテクストで生じ,それは彼らにとって自明なことだと思うので,このギルのような記述はしないだろう。たぶん。わかんないけど。

一方でこういった見方を紹介する際に,フレイレの例を提示することは有効だろうと思う。支配と抑圧の関係が顕在化している文脈でフレイレが見出した教育の伝統的様式に対する政治的観点からの批判を理解することで,その教育に関するよくあるイデオロギー(=調和的社会観)の問題点がはじめて具体性を持って認識されるのではないか。

Schmidt(2001)を読み返す

まえがき

Attentionとかawarenessとかが研究の焦点なので,これは何回か読み返す論文(ブックチャプター)の一つだったと思うのだけど,結構もう長いこと読んでなくて,久々にさらっと読んでみたらぜんぜん覚えてなかったし今読むといろいろ受け取り方が違う感じがしたのでちょっとちゃんと読んでみようと思い,せっかくだからメモを残しておくことにした。めっちゃ長くなった・・・。

■対象文献
Schmidt, R. (2001). Attention. In P. Robinson (eds). Cognition and Second Language Instruction (pp. 3-32). Cambridge University Press.

AttentionはL2Aにとって大事だよーだからこれまでいろいろ言われてきたことを概念整理するよーっていう論文。

■内容(というか読んでいる私の思考の流れ)
UGとかコネクショニズム的には学習は基本的にImplicit learning(learning without awarenessと定義)だけどExplicit learning(learning with awarenessと定義)も活発に議論されてきて,そんでawarenessという概念についてちょっと考えていきましょうという感じで始まり。
あ,ちなみにこの論文ではL2Aのattentionの役割について論じるけど,attentionとawarenessは違う概念ではあれど同じコインの裏表(Carr & Curran, 1994とか引いて)で,切り分けるのは実質不可能だからその代わりnoticingという低次のawarenessと注意に関連する概念を用いるというかんじ。切り分けないとは言っているけれど,これまでの文献を読む限り,私はnoticingは認知心理学でいうawarenessの伴ったattentionであると理解している。
それで,注意と関連する言語使用や発達の話へ。随所にfocused attentionは習得に必要なんだとか,リハーサルは学習に必要なんだとかいう先行研究の話や,明示的指導の有用性という話が入ってくる。
その後,認知心理学っぽい話になって,Attention is limitedとかAttention is selectiveとかAttention is subject to voluntary controlとか,そういうAttentionの特徴を挙げていく話になる。折に触れてL2研究の知見も踏まえている。
そんな概論的なことを読んでいるうちに,Tomlin and Villa (1994)の話なんかも入ってくる。ちょっとこの当たりで読むペースを落とす。
Tomlin and Villaを読むと同じことが書いてあって日本語の概論書にもよく出てくるけれど,認知心理学で定義されている注意の機能(orientation, alertness, and detection)の中で,orientationとalertnessはdetectionを促進し,このdetectionこそがその後の処理と学習の必要十分条件であるが,detectionは別にawarenessが伴っているとは限らないという話。awarenessを含むattentionであるnoticingがL2Aの必要十分条件であるといっていたこれまでのSchimdtを批判する論文である。Tomlin and Villaはawarenessの伴わないdetectionと,awarenessの伴うfocul attention(つまりnoticing[と本人も書いてる])をちゃんと分けなさいと言っている。さてどんな反駁がくるかなーと思って読んでいくと,以下の三つの箇条書き(p. 18)

・どうやって刺激(とかその特性)が注意されたってわかるのさ?
・どうやって刺激(とかその特性)が気づかれた(attended)ってわかるのさ?
・どうやって刺激(とかその特性)が注意されたり気づかれたりせず記憶されたってわかるのさ?

それで,VanPatten (1990)やLeow (1997)が出してきたエピソードやthink-aloudで引き出された内省データを示して,こういう分析では気づいてないとか注意されてるかわからないじゃないかー!あとeye movementsを使った研究もあるけど,それでもなおorientationについてはわかるかもしれないがdetectionについては結局わからないままだー!という主張。eye movementsのくだりはどういう意味か良く分からなかったけどこれ以上詳しく書いてなかったし参考文献も挙がってない。「注意を向ける」というのはdetectionが起こった状態を指すのであって,orientationはその「構え」を作るようなの機能で,視線の動きはorientationのみを示してるっていうこと?視線計測のモデルに関しては詳しくないので,また誰かに聞こう。。。

実験でnon-conscious registrationとconscious noticing within focal attentionを分けることはできないんだよネバザレス・・・(いまp. 20らへん)という話。
このへんでnoticing, attention, awareness, consciousness, conscious awareness, conscious attention, conscious perception, focal awarenessを全部同じ意味で使ってることにだんだんフラストレーションがたまってくる。てかいまconscious noticingって言ったよね?あとnon-consciousとunconsciousとpre-consciousとsubliminalとimplicitも同じ意味で使ってる・・・???
とりあえず本文に戻ると,言語化できないからっていってnoticingしてないわけじゃなって話。
それで,awarenessなくてもsubliminalに反応がでるprimingって手法もあるけど,これも結局被験者が刺激を無視するかもしれないし,良く知ってる母語の単語とか出てきたときと新しいのが出てきたときでは結果が異なってこの方法も望み薄だよねとのこと(pp. 26-27あたりに出てくるけどdual-task conditionでもprimingでもawarenessのないattentionなんか測れないと論じている)。。。でも注意の役割としてはprimingも話にいれて置かねばなるまい!とprimingの話が出てきて”Can there be learning without attention?”というセクションでもとの話に戻る。

p. 23あたりで,結局注意の向かない学習ってあるの?ということで(あれ,awarenessの伴わない注意が学習の必要十分条件なのかっていう問題じゃなかったのか・・・)一つの批判としては,Gassが,直接インプットのない項目でも,関係節の投射モデルなんかにあるみたいに習得できるじゃないかと批判しているという。「いやでもね,その議論はattentionにまつわる主要な視点を欠いていると思うんだ・・・大事なのは,インプットに基づかない習得があるのかって点じゃなくて,注意されていないインプットから注意されたインプットと同じくらい習得されるのかってことだよね(p. 23)」と書いてあって,そこから,注意は習得を促すから大事なんだよという話に。
いやまあ,このあと確かに「unconscious learningはないとはいえないかもしれないね」って結論になるし,どちらかというとnoticingは必要十分条件というより促進効果を持つくらいの認識がいいかもとSchmidtが譲歩したという意味で大事な論文なんだけど,ここまでずっと気づきは習得の必要条件やゆうてたやんけーーーー!!という感覚がすごい。

っていうかいつのまにかawarenessが学習に必要かって話からattentionが必要かって話にすりかわってるような・・・attentionが必要だなんてTomlin and Villaだって言ってるし,それともまたこれnoticingと同義で使ってるのか!?わからん!っていうかだからこういうことになるなら頭からattentionとawarenssは一緒ですなんて言うんべきじゃなかったんだよおおおおお概念的にめっちゃ区別してんじゃんかよおおぉぉぉぉ

最後に認知心理学の知見としてJacoby, Kindsay, and Toth (1992)というのが結構な分量が割かれて紹介されていて,やっぱり注意のない学習っていうのもあるのかもしれないね・・・。という話になっていたが,これもなんか,consciousnessとattentionという語が混在していて,結局Jacoby, Kindsay, and Toth (1992)がlearning without awarenessをみようとした研究なのか,learning without attentionをみようとした研究なのかわからなかった。原典のアブストラクトを読んだ限りではconscious processの話だったので,learning without “awareness”の話なんだろう。つまりここでまたawarenessが学習に必要かって話に戻ってる。

で,最後は,「でもattention(これもawarenessの意味で使ってるんだろうか・・・)のない学習があるというだけでは実りが少ないから,注意が学習を促す効果があるということで(pp. 28-29あたり)」という結論。

■コメント
私の理解ではattentionは意識を方向付ける認知機能で,色んなところに同時に向けることができるから,資源の限界がある。だから,認知心理学系の論文では,方向性や資源配分の話をするときはattentionを対象にしていると思う。一方で,awarenessは意識の階層的な段階のうち一定以上のレベルを持ち焦点化されたものであって,基本的にあるかないかで判断される正確のものだ。だから,attentionが何かの対象に向いた上でawarenessがあるかないかが議論される。
Tomlin and Villaの批判は,「awarenessは学習の必要十分条件」だというNoticing hypothesisを批判し,「awarenessが伴わなくても起こるattentionの機能が必要十分条件」という主張だった。つまりその議論を汲むならば,attentionはやっぱり大事ということは議論に相違がないはずなので,それがあると仮定した上で,意識(consciousness)の中でも高次のもの,つまりawarenessが必要かどうかに論点が絞られるはずの流れだった。そういう意味で,頭からawarenessとattentionを概念的にも区別しないという立場を取った時点で,何が焦点なのかよくわからない論立てになってしまっている。
さらにそこに「awarenessはないがattentionが向いている状態」で起こるというprimingの話が出てきた。その中ではSchmidtもattentionとawarenessを区別している。ここだけ違う人が書いたんじゃないかと思うほど一貫性がある。その後のセクションではまた二つの語がinterchangeableに使われている。だから,attentionが習得の必要十分条件かどうかという問題提起はされていないのに,awarenessについて議論したのちattentionは必要十分条件じゃないかもしれないと結論付けている。Tomlin and Villaとしてもこの結論は納得しないのじゃないだろうか。
そもそも,意識の段階を3段階に分けるというのは,そのような段階が仮定されることで現象が説明しやすくなるというものであって,ちゃんと実在性が実証されたものなのだろうか(ガチの認知心理ではやられてるのかな?ご存知の方いらっしゃったらご教示ください)。意識の強さの度合いというのが連続的なもので,理論的に無理やりぶった切ってるんだとしたら,そこをそんなに厳密になることにどれほどの意味があるのだろう。今後視線計測だとか脳波の計測だとかでどんどん低いレベルのawarenessを含むattentionが測定可能になったとしても,その発見が知れ渡るのは,「awarenessのない学習はない」という結果がみられたときではなく,「こんな低いレベルのawarenessでも学習がみられた」というときなんじゃないだろうか。いつまでたっても「現代の技術では見れないだけ」という批判がつきまとう。とにかく,ないことをないと証明するのは難しい。

ただこれはもう15年近く前の論文なので,その後この議論がどのくらい発展しているかわからない。というか,私が今のところチェックしている論文でこの区分けに真正面から取り組んでいるSLA論文を見てない。ちょくちょくいろんな媒体で取り上げているSharwood-smithやTruscottのMOGULもちょっと焦点が違うし,人工語習得研究もこのへんはスルーで(たぶんattentionにはそんなに興味ないような気がする),教育系の議論のときだけ「気づきが大事」というかんじで取り上げられているような。もうちょっと色々読んで整理してみたい。

セルフアーカイビングと著作権に関する覚書

 近年はネットの発達で,自分のサイトや研究者用SNSで自身の論文をアーカイブし,多くの研究者に閲覧可能な形にするケースが増えているようだ。

特に近年は図書館も財源が厳しいそうで,私の所属している大学もどんどん電子ジャーナルの契約を打ち切っているので,それならばとできるだけセルフアーカイビングして多くの研究者の方々に自分の論文を読んでもらおうとする人は多いかなと思う。で,私もそうしている。

ただセルフアーカイビングは出版社が持つ著作権の問題なんかもあり,結構躊躇するひともいるのではないか。私も各出版社やジャーナルのポリシーを読んで,色々読んでそれなりに勉強してからアーカイブを始めたけれど,やはり法に触れる可能性のある問題だから最初はドキドキしながら載せた。

そこで,その際に学んだことをここに書き留めておこうと思う。これでセルフアーカイビングが進んで論文のアクセスが容易になればいいと思う。ただここに書いてあることを参考にして失敗しても責任は取れません(お約束の台詞)。

まず,論文を投稿する前の原稿はプレプリントというらしい。欧米ではこのバージョンの著作権は出版後のバージョンと違い自分にあると考えられているそうなので,多くの国際誌はこのバージョンをセルフアーカイビングすることを許可しているよう。確かに,大量の査読コメントをもとに段落単位で消したり増えたりするような修正の前後では論文の体裁が劇的に変わったりもするので,著作権の所在が違うというとそういうもんなのかなあとも思う。

ただこの認識が日本のこの分野でどの程度持たれているかというとよくわからない。いろいろ細かい事情は知らないが,ひとつとしては日本の学会誌では原稿に最初から図表を著者本人がレイアウトし,出版後の体裁でページ数なんかの規定もある。つまり投稿時点で最終稿と同じ体裁の原稿の提出が求められ,一発で採択/不採択が決まることも多いので,査読のやりとりの前後で比較的論文の体裁に変化がないこともあると思う。それを考えると,最終稿とほとんど変わらないものがセルフアーカイビングされるのはまずいのかもしれない。

だから,その辺の細かいポリシーが明記されてない場合,「プレプリントは俺のや!」といって許可を得ず公開してしまうと問題が起こるかもしれない。というわけで,私も国内の学会誌に掲載された論文は,公開が許可されていない場合はセルフアーカイブしていない。

査読を経て掲載が決まった原稿をポストプリントというらしい。よくポストプリントのことがプレプリントと呼ばれているのを耳にするけど,厳密にはそういう区切りがあるみたい。

このバージョンの扱いはかなり出版社やジャーナルによって異なる。

私の経験したケースでいうと,SAGEが出版しているLanguage Teaching Researchはポストプリントもセルフアーカイブしていいらしい。

一方,Oxfordが出版するApplied Linguisticsはプレプリント,つまり査読が入る前の記事のセルフアーカイブを許可しており,ポストプリントは出版後一定の年数が経過したのちにセルフアーカイブが許可されるようだ。

出版校正が入り,ページ番号が付与されたりジャーナルのロゴが入ったりしている最終稿バージョンは,大抵のジャーナルがセルフアーカイビングを許可していないみたい。ただ「許可なく公開することは禁止」という書き方のところは結構あるので,許可を取ればこれももしかしてアーカイブできるようになるかもしれない(でも正式に出版社でオープンアクセス公開にするには結構なお金を払う必要があることを考えると,許可はなかなか下りないのかもなーとも思う。ただこの原稿をセルフアーカイブしている人も国外ではしばしば見かけるので,それはお金を払ってオープンアクセスにしているからか,もしくは案外許可が下りるからかもしれない。そうじゃないケースもあるかもしれないけど私にはよくわからないぷう)。

どの段階でセルフアーカイビングが許可されるかに関しては,そのポリシーを色で分類したRomeo Colorというものがあり,以下のサイトにジャーナル名を入力して検索するとその色が表示される(http://www.sherpa.ac.uk/romeoinfo.html)。

私はこのサイトでチェックした後,細かいところはジャーナルのポリシーを読むことにしている。
おしまい。