『タスク・ベースの英語指導』に対する異議申し立てに関して

本エントリーは,表題の著作第2章の執筆者である福田純也個人の責任において執筆されたものです。

 

1.ことのいきさつについて

◆当初の要求とその対応まで

2018年1月12日に,『タスク・ベースの英語指導:TBLTの理解と実践(2017年,大修館)』の第2章について,靜哲人氏から大修館書店の編集部経由で,私と編者宛に文書が届いた。当文書は,私の執筆した第2章にある引用に対する異議申し立てであり,靜氏のブログをコピー・ペーストしたものだということであった(当該のブログはこちら)。

その後,引用元である靜氏の著作『英語授業の心・技・体』を読み返し,返答を行った(返答全文はこちらから閲覧できます)。

その後,靜氏から大修館に連絡があり,これ以上のやり取りを行わず問題を収束させたいため,増刷時に当該引用部分を削除,もしくは別の典拠を掲載するという対応を検討するよう,要求がなされた(以下,当該の提案を靜氏からの「折衷案」と表記する;2018/3/28追記)。

異議申し立てに対する返答で書いているように(再度後述するが),私は学術的な倫理に反する引用を行ったとは認識していない。しかしながら,靜氏が抱いた違和感に私の説明不足が一切起因していないとも思っていない(このこととその理由も,後述するように異議申し立てに対する返答に既に述べているものである)。そのような認識から,「より適切で私たちの意図が通じやすくなるよう著書に修正を加え,著書の質を改善するため」に,当該引用を削除することを承認した。申立書にある指摘に対しては,本書がよりよいものになるためのヒントをいただいたと理解し感謝申し上げた。そして,それとは別に(つまり「交換条件」としてではなく),私が学術的な倫理を犯す行為を行ったような印象を与える当該ブログの2つのエントリーを削除頂くように要請した。

※2018/3/28追記:正確を期すと,以下のように返答した;

p.43の 「(靜, 2009など)」の記述については、読者に著者の意図がより伝わりやすい文献が存在するか確認し、増刷時に別の文献に変更することを検討いたします。その際には当然ながらp.245に参考文献として挙げている「靜哲人(2009)『英語授業の心・技・体』東京:研究社.」もその文献に置き換えることになります。

この対応を,大修館を通して申し入れたのが2018年2月6日のことである。結果的にお互いの要求を満たす解決策に至ったと思われたため,我々はこの要求をもってこの問題は収束に向かうと考えていた。

 

◆要請の事実上の棄却と,その後の対応

その後しばらくして,靜氏が2回目に掲載したエントリー(https://cherryshusband.blogspot.jp/2018/01/blog-post_20.html)が,「削除」ではなく「更新」されていることを,知人からの報告を通じて知った。そこには,「的はずれな紹介で貶められている『心・技・体』の名誉が、一日も早く回復されることを願ってやみません。(注:2018.02.07 下線部の表現を修正しました)」との記載があった。

靜氏自身の持ちかけてきた「折衷案」の大部分についてこちらが同意したにもかかわらず,靜氏はこちらの要求を実行しないことについて戸惑ったが,私としてもこれ以上そのような「こう書いている・書いていない」という水掛け論を続ける気はなかったので,私はこの件についてこれ以上触れないことにしていた。

しかしその後,2018年2月28日に,靜氏が大修館に赴き,更なる対応を要求したという事実を聞くこととなった。靜氏が満足できる対応措置のあり方の例として,大修館の媒体に「お詫びと訂正」を掲載するということが挙げられていた。

我々は大修館書店と相談の末,当該の要求への対応として,大修館のウェブサイトの『タスク・ベースの英語指導』の紹介ページ (https://www.taishukan.co.jp/book/b298105.html)に,以下のような文を入れることを検討した。

 

*靜哲人氏からの要望により,p.43, l.29「(靜,2009)」および,p.245, l. 9「靜哲人(2009). 『英語授業の心・技・体』東京:研究社」は本書増刷時に削除することとします。

 

「正誤訂正」としなかったのは,誤引用を行ったとして認識を改めたからではなく,先述の通りより適切で意図が通じやすく修正を行い,著書の質を改善するため,というのが引用削除の理由であったからである。この認識については靜氏から「折衷案」が届く前に述べてあり,その後の対応から靜氏もその件について理解を示したものだと私は思っていた。なにより我々はその認識を靜氏に述べた後に,靜氏から届いた「折衷案」を全面的に受け入れていたからである。

そのような対応を,大修館を通じて申し入れたところ,後日,靜氏によって以下のようなブログのエントリーが投稿された(http://cherryshusband.blogspot.jp/2018/03/2017-tblt.html?m=1)。

ブログの内容については,これまで私たちが行ってきたやりとりとは大きく異なることが書かれていて困惑した。まずここに述べているように,我々は大修館を通じて異議申し立てがあったのちにその対応を送付し,その後靜氏から「折衷案」が提示され,こちらはその要求を受け,その後に更なる要求がなされた,というのが私の把握している流れである。しかしながら当ブログエントリーでは,靜氏が「4つのことが実現されるよう努力し」,要求が叶えられなかったので決別した,と書かれている。まず,そもそもこの「4つの要求」が同時に提示されたことは一度もなかった(前述の通り,そもそも提案のなされた時系列が異なる)。(3)の「増刷はいつになるのか不明であるため、それまでの救済措置として大修館書店のHPなどで、「増刷時には削除する」ことを公表・明示すること」は,「折衷案」をこちらが受け入れた後になって突如靜氏から要求があったことである。さらに当該エントリーの中で,私はあらゆる公開を拒否して逃げ回っているような書かれ方をしているが,私としては,対応を求めるという文章が届いたのでその対応を誠心誠意書いて送付したに過ぎず,まったく問題のない方法で異議申し立てに対して返答したと考えている。その後しばらくこちらの対応に靜氏が納得していないとは伝え聞いていなかったので,我々の対応の後にこの問題は収束に向かっていると感じていた。

 

2.『タスク・ベースの英語指導』第2章における引用に関して

靜氏は,上記のエントリー(http://cherryshusband.blogspot.jp/2018/03/2017-tblt.html?m=1)をはじめ一連の投稿においても述べているように,『心・技・体』においては「発音面の正確さは流暢さに先行すべきだ」と主張しているにもかかわらず,私が「言語の形式面一般の正確さは流暢さに先行すべきだ」と誤って解釈して引用していると述べている。それに対して私が「異議申し立てに対する応答」にて行った返事は以下のとおりである。『心・技・体』には,音声の正確さに関する主張がほかの領域にも適応可能であることが再三にわたって明示されている。例えば『心・技・体』12-13頁における,「正確な綴りは不要?」「時制は不要?」「3単元は不要?」「冠詞は不要?」というセクションで,発音に当てはまることは狭義の文法(形態統語的なもの)についても同様に言えると書かれており,さらに,18-19頁では,

 

話をわかりやすくするため,英語の発音ではなく,タイピング技能について考えてみよう。「個々の発音の正確さを気にしすぎると,流暢さが育たない」という議論をタイプ技能に当てはめると,「タイピングの正確さを気にしすぎると,タイプスピードが育たないから,正確さはあまり気にしすぎないほうがいい」となり,いかに馬鹿げた議論かがよくわかる。

 

と述べられている(さらに言えば,靜氏の最初のブログエントリーにおいて,正確な発音ができない状態で流暢さを求めることがいけないのは「これは私が見聞きしてきた範囲において真実であり、(おそらく発音だけでなくmotor-skillが関わるおおくの身体的技能にも広く当てはまる)真理」だからであると自身でも述べている)。つまり,靜氏は『心・技・体』において発音指導に当てはまることが,ほかの領域にも適応可能であると当該書の内外で明示したうえで発音指導についての議論を行っているのである。これらの記述をもって,私は『心・技・体』の中で読み取れる指導信念として,『タスク・ベースの英語指導』第2章における引用を行った。

また私は申し立て書に対する対応の中で,上記のことが「『心・技・体』の断片的な引用によって読者が理解できる範囲を超えており,『心・技・体』全体を読み解くことによって理解できる,全編を貫く信念に関することであると判断した」ため,このような引用になったと述べた。この点に関して靜氏はブログエントリー(https://cherryshusband.blogspot.jp/2018/03/2017-tblt.html)の中において,

 

「読み取れる信念だ論」はあたらない。第一に、『心・技・体』にはそのようなことはどこにも書いていない。第二に、『心・技・体』の著者すなわち靜にはそういう信念はもともとない。だから、ないものを「読み取れる」はずはない。もしそう「読み取れた」のなら、その者の読み方が誤っている。

 

と述べている。私は,著者の意図通りに読者が読み取らない場合,その原因としては「その者の読み方が誤っている」以外に「著者が(本当はどう思っているのであれ)そう読めるように書いている」という可能性も考えられると思う。書かれたテクストが著者の考えをいつでも完全に表すことができるとは私は考えないし,この件にかかわらず私は多くの学術的テクスト執筆者の「本来の人となり」にそれほど興味はない。そして,私が靜氏の信念として以上の解釈を行った理由はここまでに述べた通りである。しかし,私が読み取った内容に関して異論を示すことに関しては学術的には正当な手続きなので,それ自体を非難する意図は私にはないし,「『タスク・ベースの英語指導』において書かれているような信念を私は持っていない」という主張があっても当然私は何の異議申し立ても行う気はない。

 

3.おわりに

当初我々が異議申し立てを受け,それに対する対応を送付した後に「これ以上のやりとりはやめて問題を収束させる」という提案をしたのはほかならぬ靜氏本人であった。そして,それに付随した要求に対し我々は大部分で合意してきた。にもかかわらず,その後も執筆者の人格を否定するようなエントリーは投稿され続けている。私はこのようにブログで意見を言い合うことが「公開された場でのフェアなやりとり」だとは全く思っていないし,このやり取りが何か英語教育において生産的な議論を生むとは思えない。事実,私のこのブログエントリーが投稿されることによって学界にもたらされる知見はほとんどない。したがって私は,これ以上この問題について延々と議論を続けたいとは思わず,願わくばこれまでの合意事項をもってこの問題を終わらせることを望んでいる。そしてその時にはこのブログエントリーもここに残し続ける理由はないと考えている。靜氏の一連のブログエントリーには私は大変困惑をしているが,上記したように,私が解釈した意味での靜氏の「信念」が実際のものと異なるなら,そのような内容のポジションペーパーを学術論文として執筆していただきたいし,謹んで拝読したいと思っている。そして将来実際にお会いしお話しする機会があるとすれば,その資料に基づいて(遺恨を残したののしり合いではなく)より建設的な議論ができればと願っている。

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2017年の振り返り

ほぼ数回に一回はその年の振り返り記事になっているほど過疎っている本ブログですが,今年一年あったことを振り返ってみたいと思います。

なんといっても今年一番大きかった出来事と言えば,所属が移ったことでしょう。静岡県立大学(University of Shizuoka)から静岡大学(Shizuoka University)へ移りました。ポスドク研究員っぽい業務内容と聞いていましたが,実際そういう雰囲気ながらなかなか普通のポスドクではできないだろう経験をしています。

普段私が何やってるのかよくわからない人も多いと思いますが(静大の学生にもそういわれますが),分析したりいろんなところ行ったりしています。特に亘理先生をはじめとする大学の先生たちや県の指導主事の先生たちと高校を回っていろんな授業を見て,協議に参加したりさせてもらっていました。見た授業は40時間ぶんくらいだと思いますが,とにかく周りの先生方の授業を観察する視点に圧倒されつづけた一年だった気がします。変なこと言って無能扱いされないか心配で日々必死でしたが,たまにはアドバイスを求めて尋ねてくださる方々もいて,多少ここに存在する意味はあるのかなと胸をなでおろしたりしています。

昨年まではとにかく毎日授業と授業準備をし続ける生活で,多くのコマ数を捌くことに不慣れなこともあり,それはそれで実に学ぶことの多い時間となったのですが,今年は逆に,ただただ授業をこなしていても絶対に身につかなかっただろうなと思うような見方や方法を身に着けることができたと思います。

なんだかんだ学生生活が長かったので働き始めてから日は浅いですが,なんかこう自分が一生懸命やったことで,自分が多くのものを得ることができるというのはそうなんですが,それがたとえほんの少しでも他人にも還元できてるかもしれないと思えるのっていいですね,なんて意識の高い新人会社員みたいなこと言ってみたりするんですけどね,裏を返せば学生時代まで何を頑張ってもそういう実感が皆無だったってことでもあるんですけど,まあそんなもんでしょうか。

自分の研究にフォーカスすると,今年は実にリジェクトが多い年でした。リジェクトに始まりリジェクトに終わったと言っていいでしょう。自分が筆頭じゃない共同研究もリジェクトされまくって,リジェクトに次ぐリジェクトで語尾が変わっちゃいそうだジェクト。今月帰ってきたやつも,メジャーリビジョン判定の原稿を修正して出したら再査読に一年かかってまたメジャーリビジョンで帰ってきたりジェクト(どっちやねん)。

あ,でもここで書いたように,今年は共著で本が出ましたェクト。卒論執筆中の色んな大学の学生の方々が結構持っててくださってたりして,嬉しかったですェ外。来年は違う出版社が単著も出してくれるっぽいです。がんばりまーす。

ということで今年はとても充実した一年でした。来年もそうなるように努めたいです。今年もあとわずかですが,皆様もいい年を過ごしてお迎えください。

言語教育の具体的方法論の裏にある言語観,学習・教育観

昨日(12/16)に行われたCELES愛知の講演で青木昭六先生のお話を伺ってきました。

講演タイトルは「What do you think about “T-ASK” activities?」というものでした。

講演では,JespersenやWiddowsonやHallidayといった研究者をはじめとする広範な引用から「言語」や「コミュニケーション」が論じられ,そこから先生の「言語観,言語学習・教育観」が展開されていきました。その達成方法として,推論発問とそれに基づくコミュニケーションによるモデルが具体的に示されていました。正直,少々難解だったけど,ハンドアウトを見直して少し時間をかけて咀嚼する必要があると感じる含蓄に富む講演でした。

個々での内容は,青木先生が長い時間をかけて,言語とはどのようなものかということから突き詰め,言語教育とはどのように行うべきか考え続けた一つの結論なのだと思います。外国語学習・教授を具体的に「どう行うか」という議論になる際には,何かと,どうやったら記憶に残るか,どうやったらそれを早く引き出せるかが焦点になりがちですが,そもそもその教授の対象はどのようなものか考え,理解すること理解は極めて大切だと改めて感じます。

そういえば,第二言語習得研究者の若林茂則先生が外国語教育の対象たる(第二)言語について論じたうえで英語教育を考えるという動画があり,このあいだ興味深く拝見しました。

しかしこの動画の編集かっこいいな・・・。中央大はいりたくなるわ・・・。

 

最近書かせて頂く記事に隙を見てちょこちょこと書いてるんですが,言語教育に従事する際にはもちろんのこと,どんな研究をしていても,その具体的な方法論を論じる際にはその人がベースとしてる言語観・教育観が不可避的に反映されるわけですから,自身のベースにあるディシプリンは何にしろそこには自覚的・自己反省的でありたいし,考え続けたいものです。

 

また青木先生の講演に戻ると,タイトルにある「T-ask activities」は,先生(Teacher)が問う(ask)推論発問とタスク(task)をひっかけて松村さんをからかったタイトルだそうです。お話を伺っているとそこに込められた意味は単なるからかい以上に深く,いわゆる教育における放任-押し付けのジレンマに対しての問題提起もあるようでした。青木先生自身はいわゆる「問題解決型」の授業を否定するわけではなく,しかし先生が主導的に発問を行って生徒が得るべき「言語能力(これももちろん記憶の貯蔵と検索の意味を超えたもの)」を引き上げるという観点へしっかりと目くばせしています。その最適解は恐らく,このような二項対立的「あれか,これか」のはざまの微妙なバランスにあるのでしょうが,その微妙な点に自分なりの答えを見出せるかどうかも,知識を基にした熟考の上に確立された言語観の有無にかかっているのでしょう。

教科書にあるマテリアルと,そこに対する推論発問のみで生徒が目を輝かせながら能動的に考え積極的に活動する授業を行う先生はいますし,そのような状態を目指したはずなのにつまらないタスクを用いた授業というのも現実には存在するでしょう。もちろんテクニック的な上手下手はあるのでしょうが,結局は「よい授業」のためにはそれにふさわしい認識の基盤が必要なのだろうなあと考えさせられました。

本が出ました:『タスク・ベースの英語指導―TBLTの理解と実践』

もうだいぶ出版してから時間が経ちましたが,私が執筆者に加わっている本が出ました。

タスク・ベースの英語指導―TBLTの理解と実践』大修館書店

私は以下の2つの章を書きました。

  • 第2章 タスク・ベースの言語指導と認知のメカニズム—第二言語の学習を促す心理的要因
  • 第3章 タスク・ベースの言語指導と教育思想—社会における教育としてのTBLT

第2章では,第二言語習得研究にもとづいて,どんな背景でTBLTが提唱され,どういう実験結果に基づいて何が<効果的>と言われているかについてまとめました。

その上で第3章で,教授法選択はそういうミクロな視点だけでなくマクロな視点から考えることも必要,という感じで半ば自分で書いた第2章にブレーキをかけるような章を執筆しています。主に,経験主義的(pragmatism)な教育思想と批判的応用言語学の観点からTBLTを考察しています。特に英語教育論でありがちな「経験を通して学ぶと記憶に残りやすい」というレベルの考察から一歩踏み込んで論じることができたと思います。

まだまだ浅学な私にこの大切な章を書かせるのは大変勇気のある決断だったと思います。お声がけくださった編者の松村昌紀先生に心から感謝します。

ところで。

この第2章と第3章,まったくテイストの違う内容だったからか,どちらに興味を持つかが人によって全く異なるようです。第2章に興味があるといってくださった方にとっては第3章は「小難しくてよくわからんかった」という感想が多く,第3章を評価してくださった方は第2章についてはだいたいノーコメントでした。私としては第2章に興味があるような人にこそ第3章を読んで頂きたいと思っていたのですが,そうなるかどうかは執筆者の腕に依存するもの。・・・それほど興味持っていないものを読ませるスキルっていうのはまだなかなか。これからの課題です。

 

 

目標の設定と,そこへアプローチする方法の設定:5ラウンドシステムのレビューから

亘理先生が以前,私の仕事のうちのいくつか(高校の授業見に行ってコメントしたり,高校生のデータ取って分析したり)に関連するかもしれない,って紹介してくれた以下の本について:

金谷 憲ほか (2017).『英語運用力が伸びる5ラウンドシステムの英語授業』大修館書店.

5ラウンドシステムは教科書全体を何度も周回することでインプット量を増やし,最終ラウンドでは教科書本文のリテリングができるようになるという指導法だそう。

自分の考え方との違いについてメモしつつ興味深く読んで考え,久々にブログ書こうかなと思っていたら先生がブログにレビューを上げていたので,その劣化版みたいなのを公開するのも忍びないと思い一回消したけど,些末かもしれない点でも気になった部分に焦点を絞って改めていくつか言及してみようと思う。

◆(単元?サイクル?)目標について

全体的な流れは「本文内容理解(->音と文字の一致)->音読->穴あき音読->リテリング」というフレームワークに沿って進む。ラウンドとは別に毎授業15分ほど「ウォームアップ」としてさまざまな言語課題に取り組む。それぞれのラウンドの目標はCan-Doとも対応している(p. 104-)。

私が今回取り上げたい観点のひとつは,最終ラウンドに位置するリテリングについてである。学年なり単元なりで達成してほしい目標があって,それに対してどうアプローチするかと考える際に,この場合は行動的な目標がいつもリテリングになる。Can-Doはむしろそれに合わせて,リテリングを通じてできるようになることを想定して設定されているようにも感じる。

p.108からはさまざまなパフォーマンステストが紹介されていて,評価方法が必ずしもリテリングではないことはわかる。そうなると,評価と授業内容の一貫性について以下のことが問題になる。

◆目標とそこに対するアプローチという考え方

リテリング以外の評価方法に対してアプローチしているのは「ウォームアップ」として位置づけられているリテリング以外の言語活動である。ただこの本を読んだ限りでは,ウォームアップ活動はリテリングに向かうラウンドの中で得た表現を「使ってみる」くらいの位置づけに見え,必ずしも評価方法にアプローチする形で組織だったものであるようには思えない*1。つまり「ウォームアップ」に位置する言語活動と評価に関しては,身に着けてほしい能力がありそれを日常的な授業でどのようにサポートしながら身に着けさせるかという観点ではなく,授業でそういった活動として取り扱ったからそれに関連するパフォーマンステストをやろう,という逆のベクトルが仮定されている(まずもって「ウォームアップ」という名前からその雰囲気が滲み出ている)。このことは,達成評価が「ウォームアップ」での活動が前提となっているのにもかかわらず,単元(サイクル?)目標にはいつもリテリングが鎮座していることと矛盾する。この矛盾を解消しようとすると,最終サイクルにリテリング以外の活動を用意してそれに向けてラウンド前半の内容自体を再考するか,「ウォームアップ」自体を目標に準拠させて組織化したりすることが必要になる。

◆目標に不足ないアプローチになっているか

次に気になるのはその目標を達成するための手前のラウンドの内容だった。先にも述べたように,全体的な流れは「本文内容理解(->音と文字の一致)->音読->穴あき音読->リテリング」であって,この本にある実践はこのフレームワークに忠実で,意味理解の仕方や音読のバリエーションが先生によって多少異なるといった感じに見える。

最初に読んだ感想としては率直に「間にあるいろんな音読だいぶキツくね?」っていう感じだったが,それは亘理先生のレビューにもっと洗練された形で触れられていたので,とりあえずそれ自体にそんなに深入りしないでおく。ただ中学校は音と文字の一致は(あまり語られない気もするが)大きな難関だろうし,こういったボトムアップ的なトレーニングを多めにする必要は,学校によってその重みづけは異なれど多分にあると思う。一方で違う観点から問題提起したいのは,その多種多様な音読関連活動が,(この場合リテリングという)目標にとって不足ないアプローチとなっているかということである。換言すると,リテリングに必要な技能が(やり方が多様であるとはいえ)音読のみによって補えるとはちょっと思えない。もちろんこれは,この本で実践を紹介している先生たちの報告を疑ってるわけではない。そうではなくここには,書いてあるレシピ通りに実施した結果空中分解してしまう危惧と,ちょっと工夫するともっとよくなるんじゃないかという期待がある。

リテリングは,内容が適切に理解できていること,そしてその内容を理解・説明するに足る語彙,そして文を構築する能力が必要なのは言うまでもない。そしてなにより,テキストの要点を捉える必要がある。これらの能力を身に着けるために必要な足場掛けのような課題が途中のラウンドに必要となれば,それは音読に縛られる必要はないし,縛られてはいけないはずである。今のところ文を構築する訓練(≠文法指導)は「ウォームアップ」の例で少し紹介されているくらい*2で,その点を穴あき音読のみで対応するのは難しいだろうし,文の要点を掴んだりキーワードを抽出したりするような練習がラウンドの途中にあるわけでもない*3。また例えばシャドウイングはリテリングに必要な能力を身に着ける訓練では必ずしもないと思うが,「音読のバリエーション」として無批判に突っ込まれてる気がしなくもない。

◆まとめ

つまりまとめると,「ウォームアップ」にある言語活動ありきでパフォーマンステストを作成しているので,「ウォームアップ」自体が目標に準拠した課題群であるような組織化をするか,ラウンドと有機的に関連させるためのもっと突っ込んだ議論が必要ということ,ラウンドの最後がなぜリテリングなのかよく考える必要があるということ,またリテリングの部分を再考すると,現在それに合わせているように見えるCan-Doの記述も変わってくる(むしろCan-Doが先にあってそこから逆算的に「達成すべき課題」が導出されるという,普通のカリキュラム作成手順を踏むことになる)し,そうなるとラウンドの間にある音読群も不可避的に再考を迫られるだろうということ。このようになったときにそれを「5ラウンドシステム」と呼べるかどうかはわからないけれども・・・。

 


*1  おそらくこの本で実践を報告された先生は,このラウンドとラウンド外の言語活動の有機的関連を教師の直観で上手くやっておられたのではないかと思う。そうでないとこの下位課題で目標課題のリテリングを行えるようになるのはかなり無理があると感じる。

*2  ここでもやはり,ラウンド外の言語活動とラウンドがどう有機的にかかわるかの考察が必要でしょう(むしろそこが一番大切じゃないかと私は思う)。安易に導入してこの関連が空中分解してしまうと,この本で報告されているような結果を出すのは難しい(くらいならまだよくて,最悪の場合,ボトムアップ訓練の苦行に伴う苦痛と「不達成感」だけが残ってしまうかもしれない)。

*3 リテリングにこだわらなければ,一年生の頃なんかもう少し目標をハードル低い達成課題に設定して,2年・3年とリテリングを含むような徐々に難しい達成課題に挑戦させていけば,間のラウンドにあれもこれも突っ込む必要はなくなるだろう。2年生で経験する5ラウンドは,1年生のラウンドを経験した上でのものなのだから。

2016年の振り返り

このブログはここのところは数エントリおきに年越し前の振り返りな気がするんですけどまあいいです。
今年は仕事で静岡に移りました。だいぶん長いこと過ごした名古屋を離れて静岡です。
静岡って実は結構いろいろ縁があります。高校の時に初めての全国大会で盛大に失権したのが御殿場ですし,夢破れてすべて投げ出したのがつま恋でした。その後,研究というものに出会う大学2年生までくさったしたいのように過ごしてGPA1.4とか取ったエピソードに続く。全くかっこいい話じゃないです。
そんなこともありつつ決して静岡が嫌いなわけでもなくて,ただなんかの節目に立ちはだかるイベントは常に静岡だなあって感じもしています。

とは言っても,別に今の職場に不満はないです。周りはいい人ばかりだし,学生さんも優秀です。ただ自分がなかなか不器用で,多いコマ数を捌くのが大変で勝手に忙しくしていました。
今日はくだんの高校時代,いかにして相手を打ち負かすかということばかり考えていたあの時代によく聞いていたチャットモンチー『耳鳴り』に所収さるる曲を聴きながら大掃除しておりましたです。蜂の巣にされたin静岡ーってかやかましいわ。
研究のほうでは,なんかあまり芳しい結果が出た年ではありませんでした。某国のジャーナルに送ったら,なんかレビューに全然送られないし,レビューに送られるまでにクレームのメール2件くらい必要っぽいし,メジャーリビジョン2回なったのに送り返すたびに半年くらい待たされるし,どうなってんのってメール送っても無視されるし。もういっこのところは一年くらいレビューしててまだ結果帰ってきてないし(そんで「まだレビュー中ですか」ってメール送ったら「まだレビュー中だよ!」って返事来た),そんなだったので,アクセプト全くなくモチベーションも上がらないし。研究費関連の申請も全部リジェクトでした。論文書いてもプルーフリードできないので後期からはまったく論文かくのをやめてしまいました。なかなかうまくいかないものです。あ,でも日本語で書いたやつを投稿してたのが最近帰ってきたので,書き直し頑張ります。

身体の方は,春から腰が痛くてそれが背中に来て,最終的に首に来ました。首の椎間板が良くないらしくて,変な姿勢だとすぐ痛み始めます。重い荷物をリュックとかで背中に持つと30分くらい歩くだけで腕が痺れてくるのでなかなか困りものです。他にも内科的には消化管が悪いっぽくて,あとシップの張りすぎで首の皮膚がただれてきたりとか,まあもう節々が痛いし痒いし。夏には牡蠣に当たったりして辛い思いをしました。過去最悪のコンディションでした。

しかしそうはいっても,2017年は今年以上にいろんなイベントがありそうで,忙しくなりそうです。乗り切る為にはメンタルもフィジカルも健康でなきゃいけないし,ますます気合い入れて頑張らないといけません。
とにかく,来年はもうちょっといろいろできるといいなあと思います。良い年と悪い年は周期的にやってくるので,2015年が調子よかったしまあこんなもんかなーと,そんなふうに考えながらあまりストレスためないように何とかかんとかやっています。今年は溜めた(貯めてはいないけど)ので,2017年はより飛躍の年になるといいです。
毎年のルーチンワークを忘れずに年を越したいのでそろそろこのへんで。今年はもうほとんど過ごす時間が無いので,どうかみなさま良い年をお迎えください。

寝る前のルーティン

例えば来客があるとか,酔って帰ってきてそのまま布団にダイブするとかでない限り,いつも寝る前にこなすルーティンがある。それは少しお金に余裕ができたりすると,増えたりしていまでは結構な長丁場となっている。

まず疲労回復に良いらしいビタミンC錠を飲む。これは食後のことが多いが,忘れていたらここで飲む。

それで,きな粉を溶かしたあたたかい牛乳を飲む。

アロマオイルをディフーザーにセットする(最近はラベンダー2滴にユーカリ1滴が主なレシピである)。

ディフーザーのスイッチをいれる。下半身をメインに簡単なストレッチを行い,ついでにこの前後で足つぼを刺激しておく。どこかのタイミングで,その後の工程に必要になるホットアイマスクのレンチンを先にしておく。

目薬をしてホットアイマスクをつける。そして,楽な姿勢をとり瞑想をする。

睡眠に入る。そして,今日も研究をしなかったという罪悪感を,まどろみの中に葬り去る。

 

必要な「アクティブ」さ

先週までの授業では,スピーキングとライティングの違いを考え,とくにライティングでは文章の構造が読み手に大きな影響を与える話を例を交えながら行った(そしてその前に同内容について実際に英語しゃべってもらっている)。その上でwell organizedなライティングを行うためには,プランニングをどのように行えばよいかという内容を扱った。その上でライティングをしてきてもらい,ルーブリック評価の話を交えながら,実際に他人の書いてきた文章を観点別に評価し,フィードバックしあってもらった。

学生は他人の作文を読む中で,同じ内容についても異なる切り口や表現に多く触れることになる。また,読者の観点から他人の同じ内容の英文を読むことで,表現や構造も含めどのような点がその文章を読みやすく/にくくしているかをそれぞれが考える。その一つ一つをメモして,自分のライティングをどのように変えればよりよくなるか,ひとりひとりに考えてもらう。その後のリフレクションでは,どのようなことを学んだかについて各々とてもたくさんの内容が出てきて,ひとまず安心した。

そんななかで,評価してフィードバックを行っている授業風景を,アクティブ・ラーニングの紹介としてよく見る風景と同じだなあと思いながら眺めていた。私は自分の授業を「アクティブ・ラーニングです」と紹介したことはないし,その理念をちゃんと勉強して取り入れているわけでもないが,とにかくそんなことを思ってみていた。

「アクティブ・ラーニングをしなければいけないので,読んだ内容について生徒に話し合わせたんですが,シーンとして誰も話し合わないんです」という話を以前伺ったことがあった。話し合ってね,とか,これについて何を思いますか,といったところで,なかなか活発に意見を出してくれはしない。私も未熟であるがゆえにそんな経験をいくつかして,それですこしずついろいろな変更を加えてくるなかで,だんだんとどういう状況だとうまくいって,どういう状況だとうまくいかないかわかるようになってきた。そして,アクティブに意見を言うようになる前に,自分の意見を十分に考える時間やきっかけが必要なことも感じ,しかもその考えを練るには相当の時間が必要なこともわかりはじめた。活発に意見を交わす「アクティブな活動」の前にはいつも,主体的に考える,静かではあってもアクティブな個々人の心的活動があるように思える(話すための原稿を作る時間とか,そういうのとは別のものだ)。

もちろんほかにも本人たちの自信や慣れといった本当に多くの要因の影響がある。

しかし一方で,既習事項の文法の穴埋め問題の答えを話し合わせるといった形式で授業をやっても,ある程度学生は話すし,見た感じ同じようなアクティブさになる。しかしよく見てみると,答えがわかっている人がわかっていない人に解説をしているだけであったりする。もちろん,答えがわかっている人は説明することで理解が進むこともあるし,説明を聞いた側はそれで理解できたりするので,それ自体が即悪いというわけではない。つまりは,写真や動画でみたときに見た目がおなじような「アクティブさ」でも,その中で起こっていることは大きく異なるという,考えてみれば当たり前のことが,今週はなんだかいつもと違うイメージで捉えられた。

彼/彼女らにはどいういう「アクティブさ」が「有用」なんだろうと考える。

2015年のまとめ

WordPress.com 統計チームは、2015年のブログの年間まとめレポートを用意しました。

概要はこちらです。

サンフランシスコのケーブルカーには60人が乗車できます。2015にこのブログは約3,200回表示されました。ケーブルカーに置き換えると、約53台分になります。

レポートをすべて見るにはクリックしてください。