科研費論文のオープンアクセス化が奨励されているよう

お。

  
科研費の交付書類とともにこんな小冊子が入ってました。

広告

最近読んだ本(2015年夏)と,本を読んで思ったこと

自分用メモ。

なかなか目先の研究に必死で論文しか読めない学期中と違い,長期休みは本がすこし余裕を持って読める。以下はこの夏休みに読んだ本と,読んでいる途中で夏休み中に読みきる予定の本。

  • Mike Long. Second language acquisition and task-based language teaching.
  • 西口光一『第二言語教育におけるバフチン的視点』
  • ジェリー・H・ギル『学びへの学習 新しい教育哲学の試み』
  • パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』(三砂ちづる訳)
  • ジョン・デューイ『学校と社会』(毛利陽太郎訳)
  • 後藤バトラー裕子『英語学習は早いほど良いのか』
  • 戸田山和久『哲学入門』
  • 内田良『教育という病』
  • レフ・セミョノヴィチ ヴィゴツキー『思考と言語』(柴田義松訳)
  • ピエール・ブルデュー&ジャン=クロード・パスロン『再生産』

私の指導教員の先生の誰かがここを見るかもしれないので一応付け足しておくと,これは博士論文執筆の合間に息抜きがてら読んでます,あの,はい。大丈夫です。博論ちゃんとやってます。

デューイとヴィゴツキーは学部生の頃からの読み返しで,ブルデューはまだ途中で全部は読んでいない。

なんでこんなにSLAっぽくない本ばかり読んでいるのかというと,Longの2015年に出版した上記の本で,TBLTの”Philosophical underpinnings”の章があり, “individual freedom”や”emancipation”とかについて教育思想を引いて言及しはじめたからだ 。Long的にはこういう考え方は昔からあったのかもしれないが,こういった観点から著したものはなかったのではないだろうか。これは画期的なことだと思う。そもそも,(第二言語習得における)TBLTは認知的アプローチのSLA発で,ほかの似たような背景から出てきた教授法と同じく,こういった議論が大変少なかった。多くのSLA研究者はこっちの方が効果的だ,あっちのほうが効果的だという議論でしか教授法を評価していなかったし,(しかもその議論自体エビデンスベーストのアプローチからみて微妙だとか批判されたり,)その「効果」というのも,いかに記憶に定着しやすいかという議論に限られていた。もちろん外国語教育にその観点は極めて大切ではあるが,それは評価されるべき一側面でしかない。

幸いにして私の周りには学部生のときからそういう認識の人が少なくなく,認知的アプローチをとるSLAerとしてはずいぶん前から私も自覚していて,そういった思想的な部分はちょこちょこ勉強しなければと思い目について気分が乗る限り読もうとしてきたのだけれど,現在の状況でそんなの勉強しても僕程度の理解では業績にもならないから就職遠のくし,そもそもこれ系の話になると何言っても誰かに怒られるしで気乗りせず,あまりきちんとできないでいた。Longの記述をみて,これからようやくそういう議論はいよいよ活発になると思い,これはタスカーとしては再び腰をすえて読み込まなければいけないなと思った次第。考えたことは今後も書いていきたいので,浅学ゆえに変なこと言うかもしれませんが,ご指摘をよろしくお願いします。


それはそうと,ここから話は大きく変わるけれど,ギルとフレイレと内田氏の本を読んでいて,寺沢さんのこの記事の記述を思い出した。

批判的応用言語学の「批判的」に関する誤解

このようなコンフリクト的な社会観は、たいてい、一般の ―ナイーブな、というと怒られるんだが笑― 人々を困惑させ、ときに、不愉快にさせる。「なんでそんなに穿った見方しかできないの?」と。実際僕も言われたことがある。

またこの記事には,批判的応用言語学におけるコンフリクト的社会観は,「悪意を持った『権力』がいるせいで、この社会には、言語差別や抑圧的な言語教育政策が存在する、そうした隠蔽を科学や合理性の力で暴けば解決、という考え方」と混同させてはならないという記述がある。ということは混同している人もいるのだろう。直感的にもたくさんいそうだ。

マルクス主義やポストモダンの「権力が社会構造を介して弱者を支配するという見方」って,その立場に合意するかどうかはともかくとしても,かなり理解されにくく,誤解されやすいもののような気がする。私自身そういう見方に始めて触れた学部生時代に,わかったようなわかっていないような気になって,結局「具体的な事例はわからないがそういう目に見えない力学が働いてるんだろう,どこかで」くらいの理解だった。その内容をそもそも寺沢さんが言うところの「調和的社会観」と極めて親和性が高い教育というコンテクスト(=教育はよいものだという考え)に当てはめると「穿った見方」と見られがちなのは当然かもしれない(というのは内田先生の本を読んで強く感じた)。マルクス主義やポストモダン的な見方をとらない人なら尚更である。

例えば,ギルの本では,フレイレについて触れる際に,この哲学思想が多様な教育的文脈に適用されるには限界があると指摘する。これはフレイレの識字教育を行っていたようなコンテクストといわゆる「先進国の政治環境」ではそういった構造が根本的に異なるという前提に立っていることを示唆している。示唆っていうか,「こうした方法は第三次世界以外の教育にとっては不適当なものになってしまうのではないかという問題がある(p. 244)」という明確な記述もある。その上で,フレイレの教育思想を「先進国の政治環境」における教育の文脈にどのように適用できるかという考察を行っている。マルクス主義やポストモダンでは,そういった抑圧構造はあらゆるコンテクストで生じ,それは彼らにとって自明なことだと思うので,このギルのような記述はしないだろう。たぶん。わかんないけど。

一方でこういった見方を紹介する際に,フレイレの例を提示することは有効だろうと思う。支配と抑圧の関係が顕在化している文脈でフレイレが見出した教育の伝統的様式に対する政治的観点からの批判を理解することで,その教育に関するよくあるイデオロギー(=調和的社会観)の問題点がはじめて具体性を持って認識されるのではないか。