『タスク・ベースの英語指導』に対する異議申し立てに関して

本エントリーは,表題の著作第2章の執筆者である福田純也個人の責任において執筆されたものです。

 

1.ことのいきさつについて

◆当初の要求とその対応まで

2018年1月12日に,『タスク・ベースの英語指導:TBLTの理解と実践(2017年,大修館)』の第2章について,靜哲人氏から大修館書店の編集部経由で,私と編者宛に文書が届いた。当文書は,私の執筆した第2章にある引用に対する異議申し立てであり,靜氏のブログをコピー・ペーストしたものだということであった(当該のブログはこちら)。

その後,引用元である靜氏の著作『英語授業の心・技・体』を読み返し,返答を行った(返答全文はこちらから閲覧できます)。

その後,靜氏から大修館に連絡があり,これ以上のやり取りを行わず問題を収束させたいため,増刷時に当該引用部分を削除,もしくは別の典拠を掲載するという対応を検討するよう,要求がなされた(以下,当該の提案を靜氏からの「折衷案」と表記する;2018/3/28追記)。

異議申し立てに対する返答で書いているように(再度後述するが),私は学術的な倫理に反する引用を行ったとは認識していない。しかしながら,靜氏が抱いた違和感に私の説明不足が一切起因していないとも思っていない(このこととその理由も,後述するように異議申し立てに対する返答に既に述べているものである)。そのような認識から,「より適切で私たちの意図が通じやすくなるよう著書に修正を加え,著書の質を改善するため」に,当該引用を削除することを承認した。申立書にある指摘に対しては,本書がよりよいものになるためのヒントをいただいたと理解し感謝申し上げた。そして,それとは別に(つまり「交換条件」としてではなく),私が学術的な倫理を犯す行為を行ったような印象を与える当該ブログの2つのエントリーを削除頂くように要請した。

※2018/3/28追記:正確を期すと,以下のように返答した;

p.43の 「(靜, 2009など)」の記述については、読者に著者の意図がより伝わりやすい文献が存在するか確認し、増刷時に別の文献に変更することを検討いたします。その際には当然ながらp.245に参考文献として挙げている「靜哲人(2009)『英語授業の心・技・体』東京:研究社.」もその文献に置き換えることになります。

この対応を,大修館を通して申し入れたのが2018年2月6日のことである。結果的にお互いの要求を満たす解決策に至ったと思われたため,我々はこの要求をもってこの問題は収束に向かうと考えていた。

 

◆要請の事実上の棄却と,その後の対応

その後しばらくして,靜氏が2回目に掲載したエントリー(https://cherryshusband.blogspot.jp/2018/01/blog-post_20.html)が,「削除」ではなく「更新」されていることを,知人からの報告を通じて知った。そこには,「的はずれな紹介で貶められている『心・技・体』の名誉が、一日も早く回復されることを願ってやみません。(注:2018.02.07 下線部の表現を修正しました)」との記載があった。

靜氏自身の持ちかけてきた「折衷案」の大部分についてこちらが同意したにもかかわらず,靜氏はこちらの要求を実行しないことについて戸惑ったが,私としてもこれ以上そのような「こう書いている・書いていない」という水掛け論を続ける気はなかったので,私はこの件についてこれ以上触れないことにしていた。

しかしその後,2018年2月28日に,靜氏が大修館に赴き,更なる対応を要求したという事実を聞くこととなった。靜氏が満足できる対応措置のあり方の例として,大修館の媒体に「お詫びと訂正」を掲載するということが挙げられていた。

我々は大修館書店と相談の末,当該の要求への対応として,大修館のウェブサイトの『タスク・ベースの英語指導』の紹介ページ (https://www.taishukan.co.jp/book/b298105.html)に,以下のような文を入れることを検討した。

 

*靜哲人氏からの要望により,p.43, l.29「(靜,2009)」および,p.245, l. 9「靜哲人(2009). 『英語授業の心・技・体』東京:研究社」は本書増刷時に削除することとします。

 

「正誤訂正」としなかったのは,誤引用を行ったとして認識を改めたからではなく,先述の通りより適切で意図が通じやすく修正を行い,著書の質を改善するため,というのが引用削除の理由であったからである。この認識については靜氏から「折衷案」が届く前に述べてあり,その後の対応から靜氏もその件について理解を示したものだと私は思っていた。なにより我々はその認識を靜氏に述べた後に,靜氏から届いた「折衷案」を全面的に受け入れていたからである。

そのような対応を,大修館を通じて申し入れたところ,後日,靜氏によって以下のようなブログのエントリーが投稿された(http://cherryshusband.blogspot.jp/2018/03/2017-tblt.html?m=1)。

ブログの内容については,これまで私たちが行ってきたやりとりとは大きく異なることが書かれていて困惑した。まずここに述べているように,我々は大修館を通じて異議申し立てがあったのちにその対応を送付し,その後靜氏から「折衷案」が提示され,こちらはその要求を受け,その後に更なる要求がなされた,というのが私の把握している流れである。しかしながら当ブログエントリーでは,靜氏が「4つのことが実現されるよう努力し」,要求が叶えられなかったので決別した,と書かれている。まず,そもそもこの「4つの要求」が同時に提示されたことは一度もなかった(前述の通り,そもそも提案のなされた時系列が異なる)。(3)の「増刷はいつになるのか不明であるため、それまでの救済措置として大修館書店のHPなどで、「増刷時には削除する」ことを公表・明示すること」は,「折衷案」をこちらが受け入れた後になって突如靜氏から要求があったことである。さらに当該エントリーの中で,私はあらゆる公開を拒否して逃げ回っているような書かれ方をしているが,私としては,対応を求めるという文章が届いたのでその対応を誠心誠意書いて送付したに過ぎず,まったく問題のない方法で異議申し立てに対して返答したと考えている。その後しばらくこちらの対応に靜氏が納得していないとは伝え聞いていなかったので,我々の対応の後にこの問題は収束に向かっていると感じていた。

 

2.『タスク・ベースの英語指導』第2章における引用に関して

靜氏は,上記のエントリー(http://cherryshusband.blogspot.jp/2018/03/2017-tblt.html?m=1)をはじめ一連の投稿においても述べているように,『心・技・体』においては「発音面の正確さは流暢さに先行すべきだ」と主張しているにもかかわらず,私が「言語の形式面一般の正確さは流暢さに先行すべきだ」と誤って解釈して引用していると述べている。それに対して私が「異議申し立てに対する応答」にて行った返事は以下のとおりである。『心・技・体』には,音声の正確さに関する主張がほかの領域にも適応可能であることが再三にわたって明示されている。例えば『心・技・体』12-13頁における,「正確な綴りは不要?」「時制は不要?」「3単元は不要?」「冠詞は不要?」というセクションで,発音に当てはまることは狭義の文法(形態統語的なもの)についても同様に言えると書かれており,さらに,18-19頁では,

 

話をわかりやすくするため,英語の発音ではなく,タイピング技能について考えてみよう。「個々の発音の正確さを気にしすぎると,流暢さが育たない」という議論をタイプ技能に当てはめると,「タイピングの正確さを気にしすぎると,タイプスピードが育たないから,正確さはあまり気にしすぎないほうがいい」となり,いかに馬鹿げた議論かがよくわかる。

 

と述べられている(さらに言えば,靜氏の最初のブログエントリーにおいて,正確な発音ができない状態で流暢さを求めることがいけないのは「これは私が見聞きしてきた範囲において真実であり、(おそらく発音だけでなくmotor-skillが関わるおおくの身体的技能にも広く当てはまる)真理」だからであると自身でも述べている)。つまり,靜氏は『心・技・体』において発音指導に当てはまることが,ほかの領域にも適応可能であると当該書の内外で明示したうえで発音指導についての議論を行っているのである。これらの記述をもって,私は『心・技・体』の中で読み取れる指導信念として,『タスク・ベースの英語指導』第2章における引用を行った。

また私は申し立て書に対する対応の中で,上記のことが「『心・技・体』の断片的な引用によって読者が理解できる範囲を超えており,『心・技・体』全体を読み解くことによって理解できる,全編を貫く信念に関することであると判断した」ため,このような引用になったと述べた。この点に関して靜氏はブログエントリー(https://cherryshusband.blogspot.jp/2018/03/2017-tblt.html)の中において,

 

「読み取れる信念だ論」はあたらない。第一に、『心・技・体』にはそのようなことはどこにも書いていない。第二に、『心・技・体』の著者すなわち靜にはそういう信念はもともとない。だから、ないものを「読み取れる」はずはない。もしそう「読み取れた」のなら、その者の読み方が誤っている。

 

と述べている。私は,著者の意図通りに読者が読み取らない場合,その原因としては「その者の読み方が誤っている」以外に「著者が(本当はどう思っているのであれ)そう読めるように書いている」という可能性も考えられると思う。書かれたテクストが著者の考えをいつでも完全に表すことができるとは私は考えないし,この件にかかわらず私は多くの学術的テクスト執筆者の「本来の人となり」にそれほど興味はない。そして,私が靜氏の信念として以上の解釈を行った理由はここまでに述べた通りである。しかし,私が読み取った内容に関して異論を示すことに関しては学術的には正当な手続きなので,それ自体を非難する意図は私にはないし,「『タスク・ベースの英語指導』において書かれているような信念を私は持っていない」という主張があっても当然私は何の異議申し立ても行う気はない。

 

3.おわりに

当初我々が異議申し立てを受け,それに対する対応を送付した後に「これ以上のやりとりはやめて問題を収束させる」という提案をしたのはほかならぬ靜氏本人であった。そして,それに付随した要求に対し我々は大部分で合意してきた。にもかかわらず,その後も執筆者の人格を否定するようなエントリーは投稿され続けている。私はこのようにブログで意見を言い合うことが「公開された場でのフェアなやりとり」だとは全く思っていないし,このやり取りが何か英語教育において生産的な議論を生むとは思えない。事実,私のこのブログエントリーが投稿されることによって学界にもたらされる知見はほとんどない。したがって私は,これ以上この問題について延々と議論を続けたいとは思わず,願わくばこれまでの合意事項をもってこの問題を終わらせることを望んでいる。そしてその時にはこのブログエントリーもここに残し続ける理由はないと考えている。靜氏の一連のブログエントリーには私は大変困惑をしているが,上記したように,私が解釈した意味での靜氏の「信念」が実際のものと異なるなら,そのような内容のポジションペーパーを学術論文として執筆していただきたいし,謹んで拝読したいと思っている。そして将来実際にお会いしお話しする機会があるとすれば,その資料に基づいて(遺恨を残したののしり合いではなく)より建設的な議論ができればと願っている。

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