言語教育の具体的方法論の裏にある言語観,学習・教育観

昨日(12/16)に行われたCELES愛知の講演で青木昭六先生のお話を伺ってきました。

講演タイトルは「What do you think about “T-ASK” activities?」というものでした。

講演では,JespersenやWiddowsonやHallidayといった研究者をはじめとする広範な引用から「言語」や「コミュニケーション」が論じられ,そこから先生の「言語観,言語学習・教育観」が展開されていきました。その達成方法として,推論発問とそれに基づくコミュニケーションによるモデルが具体的に示されていました。正直,少々難解だったけど,ハンドアウトを見直して少し時間をかけて咀嚼する必要があると感じる含蓄に富む講演でした。

個々での内容は,青木先生が長い時間をかけて,言語とはどのようなものかということから突き詰め,言語教育とはどのように行うべきか考え続けた一つの結論なのだと思います。外国語学習・教授を具体的に「どう行うか」という議論になる際には,何かと,どうやったら記憶に残るか,どうやったらそれを早く引き出せるかが焦点になりがちですが,そもそもその教授の対象はどのようなものか考え,理解すること理解は極めて大切だと改めて感じます。

そういえば,第二言語習得研究者の若林茂則先生が外国語教育の対象たる(第二)言語について論じたうえで英語教育を考えるという動画があり,このあいだ興味深く拝見しました。

しかしこの動画の編集かっこいいな・・・。中央大はいりたくなるわ・・・。

 

最近書かせて頂く記事に隙を見てちょこちょこと書いてるんですが,言語教育に従事する際にはもちろんのこと,どんな研究をしていても,その具体的な方法論を論じる際にはその人がベースとしてる言語観・教育観が不可避的に反映されるわけですから,自身のベースにあるディシプリンは何にしろそこには自覚的・自己反省的でありたいし,考え続けたいものです。

 

また青木先生の講演に戻ると,タイトルにある「T-ask activities」は,先生(Teacher)が問う(ask)推論発問とタスク(task)をひっかけて松村さんをからかったタイトルだそうです。お話を伺っているとそこに込められた意味は単なるからかい以上に深く,いわゆる教育における放任-押し付けのジレンマに対しての問題提起もあるようでした。青木先生自身はいわゆる「問題解決型」の授業を否定するわけではなく,しかし先生が主導的に発問を行って生徒が得るべき「言語能力(これももちろん記憶の貯蔵と検索の意味を超えたもの)」を引き上げるという観点へしっかりと目くばせしています。その最適解は恐らく,このような二項対立的「あれか,これか」のはざまの微妙なバランスにあるのでしょうが,その微妙な点に自分なりの答えを見出せるかどうかも,知識を基にした熟考の上に確立された言語観の有無にかかっているのでしょう。

教科書にあるマテリアルと,そこに対する推論発問のみで生徒が目を輝かせながら能動的に考え積極的に活動する授業を行う先生はいますし,そのような状態を目指したはずなのにつまらないタスクを用いた授業というのも現実には存在するでしょう。もちろんテクニック的な上手下手はあるのでしょうが,結局は「よい授業」のためにはそれにふさわしい認識の基盤が必要なのだろうなあと考えさせられました。

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本が出ました:『タスク・ベースの英語指導―TBLTの理解と実践』

もうだいぶ出版してから時間が経ちましたが,私が執筆者に加わっている本が出ました。

タスク・ベースの英語指導―TBLTの理解と実践』大修館書店

私は以下の2つの章を書きました。

  • 第2章 タスク・ベースの言語指導と認知のメカニズム—第二言語の学習を促す心理的要因
  • 第3章 タスク・ベースの言語指導と教育思想—社会における教育としてのTBLT

第2章では,第二言語習得研究にもとづいて,どんな背景でTBLTが提唱され,どういう実験結果に基づいて何が<効果的>と言われているかについてまとめました。

その上で第3章で,教授法選択はそういうミクロな視点だけでなくマクロな視点から考えることも必要,という感じで半ば自分で書いた第2章にブレーキをかけるような章を執筆しています。主に,経験主義的(pragmatism)な教育思想と批判的応用言語学の観点からTBLTを考察しています。特に英語教育論でありがちな「経験を通して学ぶと記憶に残りやすい」というレベルの考察から一歩踏み込んで論じることができたと思います。

まだまだ浅学な私にこの大切な章を書かせるのは大変勇気のある決断だったと思います。お声がけくださった編者の松村昌紀先生に心から感謝します。

ところで。

この第2章と第3章,まったくテイストの違う内容だったからか,どちらに興味を持つかが人によって全く異なるようです。第2章に興味があるといってくださった方にとっては第3章は「小難しくてよくわからんかった」という感想が多く,第3章を評価してくださった方は第2章についてはだいたいノーコメントでした。私としては第2章に興味があるような人にこそ第3章を読んで頂きたいと思っていたのですが,そうなるかどうかは執筆者の腕に依存するもの。・・・それほど興味持っていないものを読ませるスキルっていうのはまだなかなか。これからの課題です。

 

 

目標の設定と,そこへアプローチする方法の設定:5ラウンドシステムのレビューから

亘理先生が以前,私の仕事のうちのいくつか(高校の授業見に行ってコメントしたり,高校生のデータ取って分析したり)に関連するかもしれない,って紹介してくれた以下の本について:

金谷 憲ほか (2017).『英語運用力が伸びる5ラウンドシステムの英語授業』大修館書店.

5ラウンドシステムは教科書全体を何度も周回することでインプット量を増やし,最終ラウンドでは教科書本文のリテリングができるようになるという指導法だそう。

自分の考え方との違いについてメモしつつ興味深く読んで考え,久々にブログ書こうかなと思っていたら先生がブログにレビューを上げていたので,その劣化版みたいなのを公開するのも忍びないと思い一回消したけど,些末かもしれない点でも気になった部分に焦点を絞って改めていくつか言及してみようと思う。

◆(単元?サイクル?)目標について

全体的な流れは「本文内容理解(->音と文字の一致)->音読->穴あき音読->リテリング」というフレームワークに沿って進む。ラウンドとは別に毎授業15分ほど「ウォームアップ」としてさまざまな言語課題に取り組む。それぞれのラウンドの目標はCan-Doとも対応している(p. 104-)。

私が今回取り上げたい観点のひとつは,最終ラウンドに位置するリテリングについてである。学年なり単元なりで達成してほしい目標があって,それに対してどうアプローチするかと考える際に,この場合は行動的な目標がいつもリテリングになる。Can-Doはむしろそれに合わせて,リテリングを通じてできるようになることを想定して設定されているようにも感じる。

p.108からはさまざまなパフォーマンステストが紹介されていて,評価方法が必ずしもリテリングではないことはわかる。そうなると,評価と授業内容の一貫性について以下のことが問題になる。

◆目標とそこに対するアプローチという考え方

リテリング以外の評価方法に対してアプローチしているのは「ウォームアップ」として位置づけられているリテリング以外の言語活動である。ただこの本を読んだ限りでは,ウォームアップ活動はリテリングに向かうラウンドの中で得た表現を「使ってみる」くらいの位置づけに見え,必ずしも評価方法にアプローチする形で組織だったものであるようには思えない*1。つまり「ウォームアップ」に位置する言語活動と評価に関しては,身に着けてほしい能力がありそれを日常的な授業でどのようにサポートしながら身に着けさせるかという観点ではなく,授業でそういった活動として取り扱ったからそれに関連するパフォーマンステストをやろう,という逆のベクトルが仮定されている(まずもって「ウォームアップ」という名前からその雰囲気が滲み出ている)。このことは,達成評価が「ウォームアップ」での活動が前提となっているのにもかかわらず,単元(サイクル?)目標にはいつもリテリングが鎮座していることと矛盾する。この矛盾を解消しようとすると,最終サイクルにリテリング以外の活動を用意してそれに向けてラウンド前半の内容自体を再考するか,「ウォームアップ」自体を目標に準拠させて組織化したりすることが必要になる。

◆目標に不足ないアプローチになっているか

次に気になるのはその目標を達成するための手前のラウンドの内容だった。先にも述べたように,全体的な流れは「本文内容理解(->音と文字の一致)->音読->穴あき音読->リテリング」であって,この本にある実践はこのフレームワークに忠実で,意味理解の仕方や音読のバリエーションが先生によって多少異なるといった感じに見える。

最初に読んだ感想としては率直に「間にあるいろんな音読だいぶキツくね?」っていう感じだったが,それは亘理先生のレビューにもっと洗練された形で触れられていたので,とりあえずそれ自体にそんなに深入りしないでおく。ただ中学校は音と文字の一致は(あまり語られない気もするが)大きな難関だろうし,こういったボトムアップ的なトレーニングを多めにする必要は,学校によってその重みづけは異なれど多分にあると思う。一方で違う観点から問題提起したいのは,その多種多様な音読関連活動が,(この場合リテリングという)目標にとって不足ないアプローチとなっているかということである。換言すると,リテリングに必要な技能が(やり方が多様であるとはいえ)音読のみによって補えるとはちょっと思えない。もちろんこれは,この本で実践を紹介している先生たちの報告を疑ってるわけではない。そうではなくここには,書いてあるレシピ通りに実施した結果空中分解してしまう危惧と,ちょっと工夫するともっとよくなるんじゃないかという期待がある。

リテリングは,内容が適切に理解できていること,そしてその内容を理解・説明するに足る語彙,そして文を構築する能力が必要なのは言うまでもない。そしてなにより,テキストの要点を捉える必要がある。これらの能力を身に着けるために必要な足場掛けのような課題が途中のラウンドに必要となれば,それは音読に縛られる必要はないし,縛られてはいけないはずである。今のところ文を構築する訓練(≠文法指導)は「ウォームアップ」の例で少し紹介されているくらい*2で,その点を穴あき音読のみで対応するのは難しいだろうし,文の要点を掴んだりキーワードを抽出したりするような練習がラウンドの途中にあるわけでもない*3。また例えばシャドウイングはリテリングに必要な能力を身に着ける訓練では必ずしもないと思うが,「音読のバリエーション」として無批判に突っ込まれてる気がしなくもない。

◆まとめ

つまりまとめると,「ウォームアップ」にある言語活動ありきでパフォーマンステストを作成しているので,「ウォームアップ」自体が目標に準拠した課題群であるような組織化をするか,ラウンドと有機的に関連させるためのもっと突っ込んだ議論が必要ということ,ラウンドの最後がなぜリテリングなのかよく考える必要があるということ,またリテリングの部分を再考すると,現在それに合わせているように見えるCan-Doの記述も変わってくる(むしろCan-Doが先にあってそこから逆算的に「達成すべき課題」が導出されるという,普通のカリキュラム作成手順を踏むことになる)し,そうなるとラウンドの間にある音読群も不可避的に再考を迫られるだろうということ。このようになったときにそれを「5ラウンドシステム」と呼べるかどうかはわからないけれども・・・。

 


*1  おそらくこの本で実践を報告された先生は,このラウンドとラウンド外の言語活動の有機的関連を教師の直観で上手くやっておられたのではないかと思う。そうでないとこの下位課題で目標課題のリテリングを行えるようになるのはかなり無理があると感じる。

*2  ここでもやはり,ラウンド外の言語活動とラウンドがどう有機的にかかわるかの考察が必要でしょう(むしろそこが一番大切じゃないかと私は思う)。安易に導入してこの関連が空中分解してしまうと,この本で報告されているような結果を出すのは難しい(くらいならまだよくて,最悪の場合,ボトムアップ訓練の苦行に伴う苦痛と「不達成感」だけが残ってしまうかもしれない)。

*3 リテリングにこだわらなければ,一年生の頃なんかもう少し目標をハードル低い達成課題に設定して,2年・3年とリテリングを含むような徐々に難しい達成課題に挑戦させていけば,間のラウンドにあれもこれも突っ込む必要はなくなるだろう。2年生で経験する5ラウンドは,1年生のラウンドを経験した上でのものなのだから。

最近読んだ本(2015年夏)と,本を読んで思ったこと

自分用メモ。

なかなか目先の研究に必死で論文しか読めない学期中と違い,長期休みは本がすこし余裕を持って読める。以下はこの夏休みに読んだ本と,読んでいる途中で夏休み中に読みきる予定の本。

  • Mike Long. Second language acquisition and task-based language teaching.
  • 西口光一『第二言語教育におけるバフチン的視点』
  • ジェリー・H・ギル『学びへの学習 新しい教育哲学の試み』
  • パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』(三砂ちづる訳)
  • ジョン・デューイ『学校と社会』(毛利陽太郎訳)
  • 後藤バトラー裕子『英語学習は早いほど良いのか』
  • 戸田山和久『哲学入門』
  • 内田良『教育という病』
  • レフ・セミョノヴィチ ヴィゴツキー『思考と言語』(柴田義松訳)
  • ピエール・ブルデュー&ジャン=クロード・パスロン『再生産』

私の指導教員の先生の誰かがここを見るかもしれないので一応付け足しておくと,これは博士論文執筆の合間に息抜きがてら読んでます,あの,はい。大丈夫です。博論ちゃんとやってます。

デューイとヴィゴツキーは学部生の頃からの読み返しで,ブルデューはまだ途中で全部は読んでいない。

なんでこんなにSLAっぽくない本ばかり読んでいるのかというと,Longの2015年に出版した上記の本で,TBLTの”Philosophical underpinnings”の章があり, “individual freedom”や”emancipation”とかについて教育思想を引いて言及しはじめたからだ 。Long的にはこういう考え方は昔からあったのかもしれないが,こういった観点から著したものはなかったのではないだろうか。これは画期的なことだと思う。そもそも,(第二言語習得における)TBLTは認知的アプローチのSLA発で,ほかの似たような背景から出てきた教授法と同じく,こういった議論が大変少なかった。多くのSLA研究者はこっちの方が効果的だ,あっちのほうが効果的だという議論でしか教授法を評価していなかったし,(しかもその議論自体エビデンスベーストのアプローチからみて微妙だとか批判されたり,)その「効果」というのも,いかに記憶に定着しやすいかという議論に限られていた。もちろん外国語教育にその観点は極めて大切ではあるが,それは評価されるべき一側面でしかない。

幸いにして私の周りには学部生のときからそういう認識の人が少なくなく,認知的アプローチをとるSLAerとしてはずいぶん前から私も自覚していて,そういった思想的な部分はちょこちょこ勉強しなければと思い目について気分が乗る限り読もうとしてきたのだけれど,現在の状況でそんなの勉強しても僕程度の理解では業績にもならないから就職遠のくし,そもそもこれ系の話になると何言っても誰かに怒られるしで気乗りせず,あまりきちんとできないでいた。Longの記述をみて,これからようやくそういう議論はいよいよ活発になると思い,これはタスカーとしては再び腰をすえて読み込まなければいけないなと思った次第。考えたことは今後も書いていきたいので,浅学ゆえに変なこと言うかもしれませんが,ご指摘をよろしくお願いします。


それはそうと,ここから話は大きく変わるけれど,ギルとフレイレと内田氏の本を読んでいて,寺沢さんのこの記事の記述を思い出した。

批判的応用言語学の「批判的」に関する誤解

このようなコンフリクト的な社会観は、たいてい、一般の ―ナイーブな、というと怒られるんだが笑― 人々を困惑させ、ときに、不愉快にさせる。「なんでそんなに穿った見方しかできないの?」と。実際僕も言われたことがある。

またこの記事には,批判的応用言語学におけるコンフリクト的社会観は,「悪意を持った『権力』がいるせいで、この社会には、言語差別や抑圧的な言語教育政策が存在する、そうした隠蔽を科学や合理性の力で暴けば解決、という考え方」と混同させてはならないという記述がある。ということは混同している人もいるのだろう。直感的にもたくさんいそうだ。

マルクス主義やポストモダンの「権力が社会構造を介して弱者を支配するという見方」って,その立場に合意するかどうかはともかくとしても,かなり理解されにくく,誤解されやすいもののような気がする。私自身そういう見方に始めて触れた学部生時代に,わかったようなわかっていないような気になって,結局「具体的な事例はわからないがそういう目に見えない力学が働いてるんだろう,どこかで」くらいの理解だった。その内容をそもそも寺沢さんが言うところの「調和的社会観」と極めて親和性が高い教育というコンテクスト(=教育はよいものだという考え)に当てはめると「穿った見方」と見られがちなのは当然かもしれない(というのは内田先生の本を読んで強く感じた)。マルクス主義やポストモダン的な見方をとらない人なら尚更である。

例えば,ギルの本では,フレイレについて触れる際に,この哲学思想が多様な教育的文脈に適用されるには限界があると指摘する。これはフレイレの識字教育を行っていたようなコンテクストといわゆる「先進国の政治環境」ではそういった構造が根本的に異なるという前提に立っていることを示唆している。示唆っていうか,「こうした方法は第三次世界以外の教育にとっては不適当なものになってしまうのではないかという問題がある(p. 244)」という明確な記述もある。その上で,フレイレの教育思想を「先進国の政治環境」における教育の文脈にどのように適用できるかという考察を行っている。マルクス主義やポストモダンでは,そういった抑圧構造はあらゆるコンテクストで生じ,それは彼らにとって自明なことだと思うので,このギルのような記述はしないだろう。たぶん。わかんないけど。

一方でこういった見方を紹介する際に,フレイレの例を提示することは有効だろうと思う。支配と抑圧の関係が顕在化している文脈でフレイレが見出した教育の伝統的様式に対する政治的観点からの批判を理解することで,その教育に関するよくあるイデオロギー(=調和的社会観)の問題点がはじめて具体性を持って認識されるのではないか。

論文レビューの観点

毎年いろんな場所で論文をレビューしていて,徐々に自分が論文を読んでレビューする際の観点が変わってきたことに気づいた。

ふと,昔,稲垣先生の授業で論文をレビューしたときのことを思い出した。博士前期課程にいたころの話で,当時の私はなんかこう今より変な方向にとがっていて蘭ーーーーん論文をレビューする際にもとにかく沢山批判することしか考えていなかった。

レビューの発表が終わってドヤァとしていた私に先生はひとこと,

「この論文の欠点はわかったけど,評価すべきところはどこ?なんでこの論文選んだの?」

と尋ねた。

私はハッとなってついおならをした。

やはりいいジャーナルに載っている論文はそれなりに理由があって,ある程度欠点があっても,それが多かったとしても,それが後にものすごい被引用数を持つことがある。その論文の結果はそうやって人の目に触れ続け感心を持たれ続ける以上,その後どんどん精緻化されていくだろうし,それはそのテーマが学界にとって必要だったということ。それは,そこに掲載することでこの学界の何かが進展するとエディターが適切に見抜いたということを裏付けているのだろう。

そもそも批判すべき点のない研究などありようがないので,どんどん細かいところを突いていくのは建設的なことも多いだろうが,それが目的となってはいけないのかもしれない。僕は発達段階としてとにかく論文を批判的に読むということは大切だと思うし,自分がそうだったことを後悔したことはないけれど,そうやって分野を切り開いてきた,まだ目は粗いかもしれない研究を,適切に評価できる目を持ちたいと思う。まず,そういった論文の何が面白いのかわかるようにならなければ,掲載されて引用される「いい論文」は書けないのかもしれない。

※ここまで書いて,隣の隣に座っている人が批判的論文レビューのメモをブログに載せていたのを思い出しましたが,その記事はこのエントリを書く際にまったく意識してなかったので,怒らないでください。

【論文】Fukuta, J. (2015). Effects of task repetition on learners’ attention orientation in L2 oral production. Language Teaching Research.

Language Teaching Research(LTR)のOnline Firstに,採択された拙論文が載りました。初の国際誌です。

Fukuta, J. (2015). Effects of task repetition on learners’ attention orientation in L2 oral production. Language Teaching Research.

http://ltr.sagepub.com/content/early/2015/02/17/1362168815570142.abstract

修士論文の直後からデータを集めて,JASELE北海道で発表した内容です。

修論で考案した手法を用いて,これをTask repetitionに適応したら,先行研究で見られなかったものが見れて違った結果がでるのではないか?と思いやってみると,先行研究と全く同じ結果になりました,という研究です。ぶっちゃけあんまり新しい知見はないのですが,task repetitionにおける注意の方向性の変化を直接的に測定することを試みた研究はなかったので(パフォーマンスからindirectにそれを推論したものはそこそこある),タスクの繰り返しをやっている方は指導後のパフォーマンスの変化をディスカッションするときにtheoretical rationaleとして引用して頂けたらありがたいです(宣伝)。

これを投稿した2014年は実に調子の悪い年で,博論もまったく進まないどころか後退を繰り返し,投稿論文は6回連続リジェクトされ,年間エディターキック記録3回(最も時間のかかったエディターキック:6ヶ月),最速リジェクト記録10日,アクセプトない歴9ヶ月,年間最高リジェクト記録を7に伸ばした年でした。

身の丈に合わないところに投稿していたといわれればそれまでですが,もちろん別に国際誌にばかり投稿していたわけではなく,前年(2013年)に通ってたところにも落とされていたので,なんか落ちグセみたいなのがついていたのかもしれません。あと憑いていたのかもしれません。落ちた落ちたと言っていましたが,べつにダメでもいいやと投げていたわけでもありません(それはエディターや査読者の方に失礼なのでそこは強調したい)。ちゃんと毎回通す気で出してるんです,ええ。

居酒屋にいってはタムラに「今出してるやつ全部落ちたらもう査読なし論文しか書かないお・・・」とか弱音をはいて「ほらまだ落ちてないじゃん・・・」「ほらまだLTRあるじゃん・・・」とか慰められるのを繰り返し,そろそろ彼の慰め言葉も底をついてきたのか,あまりにもネガティブ発言を繰り返しまくる私に彼が「ネガるのやめい」としか言わなくなってきたのが年末あたり。

年末(それこそ31日)から実家に帰って全く研究をしない数日間を久々に過ごしたのですが,1/3に父親の実家である岐阜に車で移動中に,LTRから “accept with minor revision”の連絡がきました。

この論文は2回major revisionを行っていて,一回目にA4で20頁くらいのレビュアーコメントを頂き(箇条書きで40以上あったきがする),二回目に新しくでかい修正を求められており,コメントも厳しかったので,2回目もらった時点で「これは載らんだろう」という気分になっていたのですが,頑張った甲斐がありました。

しかし厳しい大量のコメントを見ながら,こんなに細かくしっかり原稿に目を通して頂いたのだからちゃんと真摯に修正しなければという気持ちになりました。査読のやりとりが多いジャーナルほどコメントは多くて細かいですが,そういったジャーナルのレビュアーの方々には本当に頭が下がる思いです。この原稿も査読の中で驚くほど良くなりました。謝辞で感謝を述べたくなる気持ちもよくわかります。

この研究は生前の前田先生にいろいろ相談に乗って頂いた最後の研究となりました。それまでもご相談させて頂いた研究はあったのですが,先生のお人柄などを考慮して謝辞に名前を入れさせて頂いたことはありませんでした。今回は大きなところに掲載されたということで許可を取ってお名前を入れさせていただきたかったのですが,それは叶いませんでした。ただ,生前の先生との会話で

私「あ,この論文,先生のお名前入ってますよ」

先生「ホンマやwwwうん,見た気もするwww」

とかいうやり取りが複数回あったことから,気を悪くされることはないだろうと思い,今回こっそりと謝辞にお名前を入れさせて頂きました。すみません。少しは,教えて頂いたことが身についていますでしょうか。

論文の書き方(結束性)

メンがヘラったわけではないですが,3日くらいの完全休業状態から復帰しますた。たまには休むのも大切です。

自分の論文の書き方についての備忘録。

研究室で隣の隣に座っている田○くんに論文を読んでもらったら,原稿がコメントで真っ赤になって帰ってきた。

○村くん曰く,「超読みにくいマジ校正出してから持ってこいよ」らしいんですが,とにかく読んだときの印象としては,文と文のつながりがわかり辛いということ。前の文読んでて,次の文に移ると,ん?えっとこれこの話か?ん?ってなるらしい。

なんかなあ,それ卒論のときから言われてる気がするんだけど,成長ねえなあ。いちおう大学で英語も教えているんだけど。

それで,いまようやく修論を投稿用に書き直したんだけど(もうD2ですよ今),その原稿を持っていって先生にみていただいてもらったコメントが,

「現段階ではまだ,段落はトピックセンテンスから始まることを意識したほうが良い」

ということだった。

その基礎基本の構成ができてから崩していくのはアリだけれども,今の原稿では,段落を読み進めていくうちに脱線するところがあって,そこがわかりにくくなっているということだった。限られた分野が似通った人ならわかるのだろうけど,ちょっと外れた分野の人だと,トピックセンテンスに立ち戻れば何について説明しているか理解できるという感覚がないのは読みにくい理由になっていると。

その話をしたら田○村くんは「そうそれ!」って顔してた。

日本語で論文書いてるとそんなことないんだけど,それっていうのはある程度「型」を破っても,段落で話が散逸して収束してないとかにはちゃんと気づいて,意識的にではなくとも,恐らくどこかで修正して話がうまく流れるようにしているということだと思う。英語だと単純に習熟してないので,そういった高次のことに気づきにくい。英語で論文書いて修士だけど学位まで取ってそんなことがいまだにできないのは恥ずかしい限りだけど,できていないのだからしょうがない。

で,今回のメモしておこうと思ったのは,「なんか読みにくい。文法云々じゃなくてとにかく読みにくい。」というのはこれまで言われてきたことなんだけど,上記のような具体的な打開策がまたいくつか出てきたということ。色々な人に原稿を読んでもらってよかった。これを意識しながら書いていったらまた多少よくなるんじゃないかと,ちょっと希望を持っている。

学部のとき当時の指導教員の先生に「英文校正では直らんと思うよ,これ」と言われたのを思い出した。才能ないのは背が低いってことと同様くらいもう別にどうでもいいんだけど,いつになっても奢らずにちゃんと成長せんといかん。

実験ノート

こんな記事を読んだ。

小保方氏実験ノートずさん、3年で2冊・断片的:科学:読売新聞(YOMIURI ONLINE) http://www.yomiuri.co.jp/science/20140402-OYT1T50011.html?from=tw

このブログのタイトルはLab notesだけど,この分野には(多分)あんまり(厳密な意味での)実験ノートを取る文化がないと思うので,恥ずかしながら私もあんまり知らなかった。私の先生の一人が実験ノート取っているらしくて,現物を見せてもらったことが一回あるくらいで。ブログタイトルはなんかこう響き重視で付けました。

ということでちょっといろいろ調べてみたので,ログとしてここに。
 
 
 

「実験ノート」 – Wikipedia

ウィキペディアでこんなに役に立つ記事をみたのは初めてかもしれない。

2ちゃんねるにも実験ノートのスレッドがあった。
関係ないけど,「お前○○スレ書き込んだだろ」的なことたまに言われるんだけど(キャラ的な問題?),普段見ないしもちろんこれまでに書き込んだこともない。
向後先生もこんな記事を書いていらっしゃった。教育系・心理系でもこういうのはあるのかー。
その向後先生の記事にあったこのリンクのページが初心者にとってもとてもわかりやすかった。
 
 
 
こうやって考えると,アイディアノート的には似たようなの作ってたけど,その書き方についてもあんまりちゃんと考えてなかったし(出てきた妄想や実験過程の気づいたことの雑記帳といった使い方),ここで読んだことは色んな意味で参考になりました。

Elicited Imitationに関する文献

を,集めて自分用にメモ。たぶん随時足してくから増えてく。
「なんやん聞いて繰り返すだけのタスクで何がわかんねん」と思うなかれで,けっこういろんな根拠とか実験とか考察とかあって面白いです。
ただこのメモは孫引きやアブストだけ読んでメモってるのも多分にあるから参考にしないでね!

Vinther, T. (2002). Elicited imitation; A brief overview. International Journal of Applied Linguistics, 12, 54-73.
EIの概観。とりあえずこれ読んどけば2002年までの動向はつかめる気がしてる私が勝手に。

Gallimore, R. & R.G. Tharp (1981) The interpretation of elicited sentence imitation in a standardized context. Language Learning 31.1: 369–92.
いっぱい実験やってEIの信頼性と基準関連妥当性を検証した論文。

Erlam, R. (2009). The elicited oral imitation test as a measure of implicit knowledge. エリスの明示暗示の青い本, 65-93.
エリスのテストバッテリーに入ってるけどこういう理屈,みたいなこと書いてある本。本借りっぱなしで92さんすんません。

Sachs (1967)
EI論じるときめっちゃよく引かれる,「3秒とか間をあけると形式的な記憶なくなって意味だけ保持されるっぽい」的なかんじの主張の裏づけになってるアレ。

Sachs (1974)
上のSachs (1967)のエクステンション。もうちょっと刺激提示の感覚を縮めたらどうなるか見てる。

Von Eckardt & Potter (1985)
Sachs (1967)のエクステンション。文を提示された後,話し言葉と絵で提示されたときの反応時間を比較している。語の意味を解釈すると表層的な表象より意味表象に置き換えられ活性化するという話。

Urano, K. (2004). How verbatim is the recognition memory for connected written discourse? 『北海学園大学学園論集』 第120号, 73-83.
Sachs(1974)の部分的追試。書き言葉で提示して,意味処理が行われた瞬間(もしくはその直後)に文字情報は喪失するという研究。

McDade, H.L., M.A. Simpson & D.E. Lamb (1982) The use of elicited imitation as a measure of expressive grammar: a question of validity. Journal of Speech and Hearing Disorders 47.1: 19–24.
直後に繰り返したら意味理解してなくてもできるけど時間がたつにつれて意味理解しないとできなくなっていくという研究らしい。子どもにEIしてもらって刺激提示の時間を変えて繰り返せるかどうかやっている。意味理解課題付き。そうすると記憶力の影響を減らせるという感じ。
ちなみに上の5本は対象がNS。

Spitze, K. & S.D. Fischer (1981) Short-term memory as a test of language proficiency. TESL talk, Quarterly for Teachers of English as a Second Language 12.4: 32–41.
“sensory store”にそんな長いこと記憶保てないからほら形式情報消えたみたいな主張するときに役立ちそうだけどまだ読んでない。
音と視覚両方で提示したら保持の長さ代わって来そうだなー。音と視覚両方で提示すると片方より理解が劣るって研究もあるけど。

Bachman, L.F. (1990) Fundamental considerations in language testing. Oxford University Press.
EIとかCloze testとかってえころじかるばりでぃてぃー的なのなくね?って言ってるのでLimitationで引用したい本。

Kaneko, E. (2013). “Improvement of L2 Speech as a Result of Non-communicative Practices,” the 32nd Second Language Research Forum (SLRF 2013), Provo, Utah.
EIをtesting instrumentだけではなくpracticeとして用いた指導法効果の研究。お会いしたのでスライドいただきました。

おなかすいた。

inputのsimplificationとelaborationの研究

について調べていた人がいたのでなんとなく論文集めてみました。
そんなに包括的にがっつりやったわけじゃないのですが一応リスト化(年代順)。
手に入らない(web公開がない)学位論文とかはとりあえずおいておいて。

・Chaudron, C. (1983). Simplification of input: Topic reinstatements and their effects on L2 learners’ recognition and recall. TESOL Quarterly, 17, pp.437-458.
・Kelch, K. (1985). Modified input as an aid to comprehension. Studies in Second Language Acquisition, 7, pp.81-90.
・Yano, Y., Long, MH and Ross, S. (1994). The effects of simplified and elaborated texts on foreign language reading comprehension. Language Learning, 44, pp.189–219.
・Urano, K. (2000). Lexical simplification and elaboration: Sentence comprehension and incidental vocabulary acquisition. Unpublished master’s thesis, University of Hawai’i at Manoa.
・Oh, S. Y. (2001). Two Types of Input Modification and EFL Reading Comprehension: Simplification versus Elaboration. TESOL Quarterly, 35, pp.69-96.
・Cobb, M. (2004). Input elaboration in second and foreign language teaching. Dialog on Language Instruction, 16, pp.13-23.
・Kim, Y. (2006). Effects of input elaboration on vocabulary acquisition through reading by Korean learners of English as a foreign language. TESOL Quarterly, 40, 2, pp. 341-373
・Rahimi, M. (2011). Use of syntactic elaboration techniques to enhance comprehensibility of EST texts. English Language Teaching, 4, pp.11-17.
・Gorjian, B., Hayati, A. & Hassanvand, S. (2012). Roles of explicit and implicit elaboration of input modification in developing vocabulary. Global Journal of Foreign Language Teaching, 2, 45-51.
・Sandom, M. (2013). Investigation into the efficacy of text modification: What type of text do learners of Japanese authenticate? Unpublished doctoral dissertation, University of Wellington.

テキストの理解度と語彙の習得が多いですね。
結構語彙のほうに行くと推論みたいな研究に収斂するんでしょうか?興味はあるんですが不勉強なのでちょっとずつ読んでいこうかと思います。